皆の者お早う御座る。

大ふへん者前田慶次じゃ!


我が日記帳開き大義。
本日も一日気張って参ろうぞ!




400年前の今日何が起きたか、、、
伝えて参る。




此度の題目
1581年12月14日
武田勝頼殿、新府城へ移る
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武田勝頼殿は有名な武田信玄公亡き後
武田家当主として跡を継ぎし者也。



新府城は甲斐国にあった巨城。
と申せど武田家時代には完成を見ず
終わった、、、


武田家の拠点と申せば
躑躅ヶ崎館である。



其処から拠点を変えるべく築かれた城であり
武田家集大成と呼ばれる城郭。




今を生きる者達は驚くかも
しれぬが、
石垣を設けておらん。
時代と共に用途が変わりつつあった城の在り方。
新府城には政務を行う機能を持ち合わせておった!



甲州流築城技術の特徴
丸馬出や三日月堀も備わっており



当主、勝頼殿期において
台地を上手く利用し敵の攻撃を制限させる
縄張作りは見事なものである。



攻撃可能な窓口は正面のみ。
更に、正面から攻撃しようとも
側面に押し出される作り!



丸馬出を利用し敵兵を深い堀の中を歩かせる
其処を横矢で攻撃。
川へと続いており、押し出すという戦法。





後に家康殿が手を加えたらしいがな。




此の巨城を築くきっかけは
長篠の戦い。
領国の守りを固めるべく築城。
穴山梅雪(軍師)が建策を上げ
普請は真田昌幸殿が担当(昨日勉強したな)




見事な城郭が真の力を発揮することなく
武田家は滅亡するのであった。





現在は史跡に指定されておる!
皆も甲斐国に参ることあらば
新府城に足を運んでみては如何かのぅ。






では、本日はこれまで。
我は名古屋城で皆の登城を待っておるぞ!


拳を掲げよ。


参るぞ、




いざ



出陣!



応ーーー!


以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者
名古屋城検定戦伝大使



前田慶次郎利益