皆の者達者であるか?

名古屋城検定戦伝大使前田慶次じゃ!


我が日記帳を開き大義である。
遂に我が日記帳が九百項を記念した。
千項まであと僅か、、
夏の間に届くのか否か
日々を生き、己が証を日記帳に綴り
民と交流せし此の日記帳は
何時迄も変わらず、在りたいものだ。





さぁ。
では、九百項を記念し
誂え向きな内容をば。




「尾張名古屋を知る」
此方の内容で綴る次第に候。
名古屋城検定戦伝大使としても
触れておきたい故にな。。
日記帳にて繰り広げる歴史授業じゃ!
確と読むのだ!!!
此度、永久保存版!!!!(長いぞ)
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拍手〜。。。



では、早速。





尾張名古屋は
徳川家康殿が築いた町である。
聞いたことあるであろうか?


尾張は日ノ本で唯一、碁盤割の城下町
にして、日ノ本の発展を願い
築きあげられた。


尾張城下町の自己紹介
・東西4.3キロ、南北4.8キロの逆三角形の城下町
・道幅は基本三間(5.4メートル)
・本町通は五間(9メートル)
・火事により道幅を広げた四間道は四間(7.2メートル)
・広小路は十五間(27メートル)
以上と相成っておる。碁盤割という事が分かろうか?
本町通は江戸時代の名古屋の中心。
名古屋城から熱田を結ぶ名古屋城築城と共に誕生。
呉服屋を始め今の百貨店と呼ばれる
前身の店が軒を連ねた。薬屋も備え
正に尾張の都心部。
毎年二月二十五日桜天満宮祭礼を行い
前後三日間は植木市を開き、盛り上げを見せた!
・ここだけの話。名古屋の城下町は西へ5度傾いていたのじゃ…。。








斯様な名古屋城城下町は
1610年に天下泰平を確信した
徳川家康殿が「名古屋」という
次代を担う町として築き申した。
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軍事目的でなく、商人を始めとした
民の為の町作り。
故に、堀川を開削し
貿易の地盤を固め
碁盤割の町にする事で
店が隣接し、幅を狭くして
人との距離を近づけ
争いでなく、協調という
心を得た。
家康殿が遺した文化遺産である。




名古屋城を中心に
主郭は本丸
二の丸、三の丸と曲輪は広がる。

三の丸は現在の中区三の丸が
ほぼ当時の三の丸に相当する。
上級武家屋敷を備え
御附家老は成瀬、竹腰を始めとする
重臣の屋敷が立ち並んだ。
家格や禄により、屋敷の規模は
細かく差がつけられていた。
家老達は、中屋敷、下屋敷、控屋敷を持った。





名古屋城の南東から約1.5キロ
文化のみちと呼ばれる
白壁、主税、橦木町並み保存地区
あたりに約200石程度の中級武士の
屋敷が並ぶ。
昭和の戦争から逃れ、当時の町並みを残す。
1985年昭和60年に歴史的町並み保存地区に指定。



堀川は家康殿が構想した
商業都市の中枢。
遡れば、信長様の堺制圧に始まり
秀吉様も商業作りに精を尽くした。
物流の拠点となる場所が
これからの町には必定。
堀川は其れ等を役目を担い、支えた。
主に、原材料を取り扱う商人達の店が並び
東側に伸びる加工販売や飲食店を担った
碁盤割の商人と交流を盛んにした。
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碁盤割の町並みは
約100メートル四方の区画に並び
此の地域を上町
碁盤割の外を下町
と区別させた。
町の中心に商人を住まわせ
商人達は、此処に店を構える事が
憧れであったのだ!
今の都市開発に通ずる考えであるな。





城下の南部には
南寺町と申して清須越しにより
集められた寺社仏閣が連ねた。
今も有名な大須観音を始め
境内には芝居小屋や見世物小屋が
立ち並び庶民の娯楽の場となった!
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此の町作りにより
尾張名古屋は
京や大坂よりも華やいだ!!


かの有名な
享元絵巻にも描かれておるが
尾張藩七代藩主徳川宗春公による政により
広小路、本町通を中心に周辺が賑わい
人々の活気と暮らしが伝わる。



時は1730年
これまでは将軍徳川吉宗公による
質素倹約を徹底する改革により
農民や町人の生活は逼迫し、不満が…。

宗春公は改革に
真っ向から反旗を翻した!
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政治理念は「温知政要」と掲げ
人の命の大切さ、個性を尊重し
規制の緩和を図る。

巻頭に「慈」
巻末に「忍」
の文字をおいて
民を慈しみ、我儘を耐え忍んで治世に臨む
藩政の方針を掲げた。


これを持って
祭りを派手で華やかにし
大須観音の近くに遊郭の開業を認めた。
境内に芝居小屋を次々に増やし
武士の芝居見物も認めた。
人々は活気に満ち溢れ
江戸で出番を失った役者や芸人たち
見物客など多くの人が名古屋に集まった。


名古屋の至る所で
毎日のように花火が上がり
宵遅くまで提灯や行灯が灯って
三味線や太鼓の音が鳴り響いた。



考えられない政。
民の心が踊り、日ノ本全土から
人が集うた。



至極当然。
質素倹約の生活から
民の欲は名古屋へと向かっていた。



人口は増え時代の流れは宗春公に。
然し乍ら、将軍より蟄居を命じられ
25年に渡って屋敷に幽閉されてしまった。
宗春公は謹慎100年。
天に身罷った後も謹慎処分は続き
謹慎が解かれたのは、没後75年を経た後のこと。




後世の世で
傾奇者と称された徳川吉宗公。





我が思うに
時の流れに逆らう形と相成ったが
其れは
"今"という時代を如何にかしよう。と
考えた末の答え。



変える
此れには相当な力を要する。
己を変えるだけでも、大変難儀。
其れが、国となると…誠に。
其の先頭に立ち
下を向いたまま、生きるのではない!
上を向き、前向きに生きるが
楽しいではないか!?
心を説いた宗春公は誠の傾奇者よ。





宗春公御自身が、尾張名古屋を愛し
人の為、何かを成そうと
動いた結果。
時は江戸時代であるが、、、
此れはいつの世でも言えること也。




我も尾張名古屋を発信する者の一人




宗春公が世界一の名古屋にするべく
戦った歴史を此の胸に刻み込み
これよりも名古屋周知に励んで参る次第。



皆々
徳川宗春公の如く
立ちふさがる壁に屈する事なく
己が生きる道を見定め
窮屈な心から脱し
広く世界を見渡し
明るき道を歩もうぞ。



我が生きる道
其方の目に焼きつけるのだ。
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色々に語れども
語り尽くせぬが名古屋の歴史。
是非に我が名古屋話を聞きに
名古屋城に足を運ぶのじゃ。
待っておる。。。




明日は七夕。
上流階級の人間が楽しんだ祭は
民の祭となった。


我が欲する夢は叶うのであろうか?
明日に期待にしよう。。。


以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者
前田慶次郎利益