皆の者達者であるか?

大ふへん者前田慶次じゃ!


我が日記帳を開き大義である。
此度綴る日記帳は歴史を学ぶ為の日記帳。読むだけで勉強になるから確と読むのだ。
{8F312AD4-384D-428B-BDD5-3FEB42D0D952}
本日五月十六日は鳥居強右衛門が磔殺された日1575年5月16日





誰だそれ??






と思うた其方。
素直で良い。





先ず知ってもらうは長篠の戦いについて。
流石に長篠の戦いは聞いたことあるな?
無かったら槍で突き刺すぞ!!!



織田徳川連合軍対武田軍




信長様の奇策により天下の武田軍を打ち倒した
有名な戦に候。






そもそも此の長篠の戦いは
織田徳川連合軍が攻めに行ったと勘違いしておる者が多い故に訂正致す!





先ず、武田勝頼軍が徳川方の長篠城を攻めた所から始まる。





長篠城は然程大きな城でもなく
天下の武田軍猛攻により、落城も目に見える。




然れど、徳川家康殿率いる三河武士らしい根性で何とか持ち堪えていた。





決着を付けたい武田軍。。
業を煮やした武田軍は兵糧庫への焼き討ちを決行。







「腹が減っては戦はできぬ」状態に陥った長篠城一同は、士気が落ちていき
「このままでは全員討死か餓死か……」と悩みに悩んだ城主は、家康殿への救援要請をすることに。






然れど、この時点で長篠城は武田軍にすっかり取り囲まれていた。。





斯様な状況下…決死の覚悟が必定。





数少ない家臣を、生きて帰るどころか生きて家康殿の下にたどり着けるかどうかも分からぬ。


難業に駆り立てなくてはいけないのか……と悩む城主に、自ら名乗り出る者がおった。






其れが鳥居強右衛門勝商!!
唯の足軽である。







水泳が得てで身分の低さから
面が割れておらぬ点を汲み取り
城主は鳥居に命じた。







城から外に通じる水路と川を泳いで渡り、見事城の外へ脱出。








翌日には岡崎城に辿り着き
家康殿に長篠城の窮状と援軍要請を見事に伝令。







運の良いことに、鳥居が岡崎城に辿り着いた時には既に家康殿と信長様の連合軍が出陣の備えを整えていた。



其の数は武田軍の倍とも言われており、これを知った鳥居は大いに喜ぶ。






「苦労をかけた、飯でも食ってちぃと休めよ。
其方は我等と共に出陣すれば良い」と仲間が言ったが、歓喜を表す鳥居。
「然すれば、一分一秒でも早く皆に伝えねば。御免!!」と、来たばかりの道を急いで戻る。






鳥居の体力…凄まじいのぅ。。






して、長篠城の近くまで来ると、「無事援軍が来るぞ!」という知らせとして狼煙を上げる。







予め「脱出した時、援軍要請に成功したときは狼煙を上げる」ことになっていた。






然し乍ら。
戦の真っ只中にて武田軍が包囲する城周りで
狼煙を上げるというのは…見つけて下さい。
と申しておるようなもの。





鳥居は武田軍に捕らえられてしまう。
拷問により援軍が参る事を白状してしまう。
鳥居は命は助からないと覚悟した。






敵に「援軍は来ない、と城に向かって叫べ!そうしたら命を助けてやろう」と命令されたが、鳥居は従わなかった。




それどころか「間も無く信長様と家康様がいらっしゃるぞ!それまで皆持ち堪えよ!!」と叫んだ。







武田軍としては「援軍が来ないことを知れば、長篠城は降伏するか士気が下がるだろう」と考えてこのように命じたが、鳥居が真逆のことを叫んだ故に策が台無し。
激昂して鳥居をその場で磔刑に処した。







鳥居の勇気ある行動と死に様を見た長篠城士は士気が上がり勝頼の目論見は大幅に外れ、城が落ちることは遂になかった。
そして織田徳川連合軍が到着した後、長篠の戦いが始まるのであった。






鳥居の忠義ある姿は
武田軍にも天晴れな武士として伝わり




信長様は褒め称え、慰霊碑を立てた。




鳥居強右衛門の血は
足軽乍も今尚続いており
我も子孫の者と戦場にて出会い
鳥居の武功を称えた!







皆々足軽なれど
後世に名を残す事も出来るのだ。






鳥居強右衛門の話
如何であったか?
重い話となったが、これを伝えるのも
我等が役目。





其の勇士を皆々に伝え
此の先にも伝わる事を祈る。
{85FECF79-FFF5-4C5E-97E6-2246F578EB08}
以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者
前田慶次郎利益



追記
何時も返文(コメント)くれる皆ありがとさん。