皆の者達成であるか?

大ふへん者前田慶次じゃ!


我が日記帳を開き大義である。
初めての返文(コメント)も多くあったのぅ。広がりを見せては、さらなる戦線拡大に繋げて参りたい次第。日記帳は我と皆が交流する場であり、指標にもなる。
此れからもよしなに。
今日の日記帳は傾奇者指南部屋。
勉強してもらうぞ!!
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さぁ。本日五月六日。
皆は黄金週間終盤ともなり落ち着き始めたか?
我も鍛錬と軍議にて一日を終えし候。


然し乍ら、今日という日は
此の前田丸、前田慶次にとっては非常に大切な日である。


何故かと、、?
けふは
【木村重成・後藤基次・薄田兼相らが討死】

1615年5月6日
河内若江の戦いにて大坂方の木村重成が井伊直孝と戦い討死。享年23。また道明寺の戦いにて大坂方の後藤基次・薄田兼相らが討死。
真田幸村は殿軍を務めて大坂城へ退去する。基次享年56、兼相享年不詳。

木村重成も後藤又兵衛も我が良く話す故に知る者は多いな!?
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然し。
薄田兼相(すすきだ かねすけ)は初めて認める。
秀吉様の馬廻衆として仕え、諸国を放浪し剛勇の武士として名を馳せた若き武士。

薄田兼相は、大坂冬の陣では女子に気を取られしまい砦を陥落させる失態を。。味方から橙武者と呼ばれてしまう。(見掛け倒しの奴という意)
決して斯様な者ではない!!
夏の陣の際は、陣頭指揮を執り自ら相手の軍に突っ込み、戦い勇猛な戦人ぶりを発揮するも、多勢に押されて首を討ち取られた。
未だ廿と三(23歳)程であったと聞く。


また、後藤基次こと後藤又兵衛は
黒田家に育てられ軍師官兵衛の元で戦に励む。然れど、子息の黒田長政とは反りが合わず出奔。その後に豊臣方として大坂の陣に参陣。
薄田兼相と同様に先陣の部隊を率いて徳川軍に突っ込む。辺りは霧だらけで味方の軍と逸れてしまったようで手勢は約三千。
相手は三万。
十倍以上の戦力差に関わらず四刻(8時間)に及ぶ激闘を繰り広げたそうじゃ。
後世にその武勇が残る。


木村重成は秀頼様の小姓として仕え、豊臣家の重臣として従事。色白で武芸に長けた小町(アイドル)。
初陣は大坂の陣。冬の陣では真田丸でも戦いを見せた!
夏の陣にて、藤堂高虎・井伊直孝軍に突撃をし討死。
木村重成の首は首実検(本人確認)として徳川家康様の元に。
その見事な首に徳川様は感服したとか。
何故かと申すと。
木村重成は戦の前に香を焚き染めて出陣。
しからば、死を覚悟しての出陣!という意

此れに若き武士ながらも、天晴れな心意気に徳川様は感服したのだ!

あと、徳川方に真田の六文銭の指物(旗)が見えた際は射撃を止めさせ、真田信繁の心中を察してやったとか。(一族争いを止めた)



最後まで豊臣の為に奮闘した武士達。
その最期は誠に見事。。。



我は木村重成公に敬意を持ち
戦場に赴く際は香を焚き染める。


覚悟を決める!
いつ如何なる時もそうでありたいと我も思うた。
一期一会。



皆々、此の二人の武将は未だ元服(二十歳)して間もないぞ!?
年齢なぞ関係無いのぅ。
下の世代に示しがつくように戦に励んで参ろうぞ!!
武士の散り際の美学。如何であったか?



いや〜
日記帳を認めておったら
真田○を観たくなったのぅ。
皆々が好きな大河絵巻(ドラマ)は何じゃ??




明日は名古屋城にて演武。
豊臣と徳川か。
我はどっちにつくか。
楽しみじゃのぅ。
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前田丸がお届けする傾奇者指南部屋で御座った!!

以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者
前田慶次郎利益


追記
章右衛門は後藤又兵衛の真似が好きであったなぁ。