此処からは儂の事を語ろうか。


儂が現世に蘇ったのは二◯◯九年十一月三日。
其の頃我等が演武を行っていたのは天守閣前で在った。
初めの頃は演武は兜を装着したまま行っておったのだ。今では想像も出来ぬであろう?
為れど、兜は後にパパイヤ鈴木殿より拝領せし舞を行うのに装着不可となり
幻の兜。通称 フサフサと称される。、、、って称されとらんわっ!


儂はと云えば、兎に角無口!此れも又、今では想像出来ぬであろう?、、、ってやかましいわっ!!

まぁ。兎に角無口だったのだ。
当時の武将隊では最も地味な存在。己でさえそう感じていたのだから中々なものである。

然し、転機が訪れた。
久屋にて行われた催しにて「尾張 名古屋の古地図本を宣伝する」という任を儂一人が任された。
其処で儂は喋りに喋った。あんなに喋ったのは初めてだ!と言わんばかりに。
其処で言われた「あなたの話しは面白い」と。

「儂の話しは面白いのか?、、、では、城でも話すか。」
てな訳で始まったのが通称 座談会。

歴史の話。武将隊の話。色々な事を話したわぃ。始めた頃は長話をする事は少なかったが
後年には四時間話した事も在ったな。、、、今思えば流石に其れはやり過ぎじゃ!!
だが、楽しかったのを覚えておる。


加えて申すならば、此の頃から五名編成での動きが増えた事も儂が話す様になった要因で在ろうな。
何故ならば「三英槍」での出陣が多いからじゃな。
必然的に大将である儂が喋らねば為らんかったという事よ。


然し。演武で申すならば、常に「三英傑」が光を浴び、人に求められるのも「三英傑」であった。
其れがほんに悔しゅうてな。
其の時儂は誓ったのだ。「いつの日か。必ず、演武は三英槍の方が格好良いと言わせてやる」と。

其の為必要なのは先ず名称。
「三英傑」とは実に呼びやすい。然し、当時儂、清正、慶次郎には纏めた呼び名が無かったのだ。
其処で二人を集め「名称を考えよう」と訴えた。
其処で出た結論は「利家様に任せます」、、、え?!丸投げ?!と思ったのは言うまでも無い。

だが、儂にも考えは在った!
ずばり!!「三英傑」に響きを寄せるという事。
加えて、我等の強みを伝えられるものという事。

そうして名付けた。

「三英槍」

誕生の瞬間であった。其れからは自らそう名乗り、定着化を図り続けた。
今では我等を知る者なら、解ってくれるで在ろう?ふっふっふ。地道に名乗り続けた甲斐があると申すものよ。



次に生み出されたのは「槍舞」
正に我等の象徴で在った。演武では必ずといって良い程行い、我等の強みを遺憾無く発揮致したと考える。

然し、其れは後に
演武形式の変更。掛かり太鼓、華演武、夢幻演武等の登場により行われる事は無くなったのだがな。



そして、我等が常として行う「遠征」
此れも又、思い出だらけよのぅ。

初めて足を運んだのは安芸国。今の広島県と記憶しておる。
編成は御館様、儂、清正、立三の四名での出陣。

演武中に雨が降り客人が0人になったり
清正が名言を名乗る際に目の前を自転車を引いた者が通り掛かったり
当時完成したばかりの広島東洋カープ本拠地にて打者目線で立ってみたり
突如広島城に奇襲をしかけたり
と実に思い出深い。

やはり初めての遠征だからか、よぅ覚えておるのだ。


他にも思い出深い土地はぎょーさん在る。

北海道
石川県
富山県
東京都
大阪府
奈良県
京都府
岡山県
高知県
愛媛県
福岡県
熊本県

海外ならば、中国は上海。台湾も記憶に新しい。

其の都度、多くの者達と出会ってきた。
無論、今浮かんだだけに留まらず多くの土地に足を運んだ。

皆の者、有難さんじゃったな。




催しも多く行ってきたのぅ。
嘗て、三重県 ナガシマスパーランドにて行われた「戦国武将祭り」は我等にとって初めてのどでかい催しで在ったと云える。
慶次郎がぶっ倒れてのぉ。あの時我等は「命を懸ける覚悟」を持った。
そして、「仲間の大切さ」を知った。

初のCD 百花繚乱
初の写真集 乱舞
初のDVD いざ、出陣!



手探りをしながら、試行錯誤。全て命懸け。
儂は名古屋城にて初めて迎えた夏に熱中症になり、倒れ事も在った。
DVD収録場。村国座では陣笠隊 立三が熱中症となり、参戦出来ぬ事も。

全く今思えば命知らずも程々にせよ!と申したい程じゃわな。


当時から心配を掛け続けた。すまぬ。




初の試み。舞台公演も始まった。

名古屋おもてなし武将隊 ~絆~

初作品目 絆 ~陣笠物語~
二作品目 絆 ~悠久の彼方へ~
三作品目 絆 ~永劫の誓い~
四作品目 絆 ~天我の風~
五作品目 絆 ~紅蓮の大空へ~


陣笠隊、清正、儂、秀吉、慶次郎が歴代主役を務め
必ず周りが主役を支え、文字通り隊内の「絆」
家臣達との「絆」を紡いで来た。

何時からか年に一度の武将隊の風物詩と相成った。此れも偏に毎年駆け付けてくれる者達の御蔭。感謝致す。

我等にとってどの作品も掛け替えの無いものなのである。







我等は出会いだけでは無く、別れも繰り返した。

我等が現世に蘇り半年 陣笠隊 お糸、茄子が隊を離れた。
我等が現世に蘇り二年半 御館様、秀吉、慶次郎、陣笠隊 市蔵、お里が隊を離れた。
我等が現世に蘇り四年半 陣笠隊 立三が隊を離れた。

そして、多くの家臣達も隊を離れていった。

三年目には五名だけで過ごした忘れられぬ一カ月半も在る。
あの時「武将隊は終わった」等と申す者も居ってな。悔しかった。辛かった。

其れと同時に「終わらせて為るものか。」と強く誓った。
五名は強く結び付き、決して切れぬ心を手に入れた。
そして儂は生きる意味を見つけた。

「名古屋おもてなし武将隊とは何ぞや。其れを伝えたい」

我等が現世に蘇り半年 陣笠隊 市蔵、亀吉と出会った。
我等が現世に蘇り二年半 御館様、秀吉、慶次郎と再会致し、陣笠隊 踊舞、元気!と出会った。
我等が現世に蘇り四年半 陣笠隊 なつと出会った。

そして、多くの家臣達と出会った。



其の都度、儂は儂が伝えられる事を伝えて参ったつもりである。
時には無理強いもしたやも知れぬ。
だが、仲間達は其れを受け入れてくれた。
徳川殿、清正は変わらず支えてくれて居た。






そして五年目を迎えたある日儂は感じた。

「儂は一度天に帰ろう」と。

伝えたき想いは伝えた。
少なからず、儂は伝わったと感じておる。


儂は名古屋おもてなし武将隊を愛しておる。
離れたいと思った事は無い。

だが、離れようと決めたのだ。



其れこそが「武将隊を文化に」為る為に必要な事なのだ。





一年前。
家臣の前で「儂は次の桜を眺める事は出来ぬだろう」と申した。
そして、主等に覚悟を求めた。

しんどい思いをさせたのぅ。だが、よぅ付いて来た。
有難く思うておる。



此れまで紡いで来た主等との「絆」
我が魂は忘れずにおるでな。



毎朝主等の心に問おう。

「又左衛門利家也。皆の者、息災であるか。」と。




最後の儂の願いである。

どうか元気で過ごせ。



よく笑え。
よく食べろ。
よく寝て。
そして、又笑え。



絆 ~永劫の誓い~に在った台詞は儂が想い続けた気持ちよ。






儂はもう迷わぬ。
いや、迷い苦しんでも決して止まりはせぬ。
信長様と皆と共に生き、明日を創り、夢を掴む!
共に泣こうではないか
共に笑おうではないか
愛する者を護り、信じる道を進む。
彼方の光に向かって、この道をひた向きに!ひたすらに!!
共に歩まん。輝ける未来へ!



皆の者。
前田 又左衛門 利家は皆に出会えて幸せであった。
心よりの愛を主等に。


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然らばである。






名古屋おもてなし武将隊 一番槍
初代干支幕府将軍

前田 又左衛門 利家