又左衛門也。



皆の者、息災であるか。






本日は徳川殿、慶次郎、陣笠隊 踊舞、なつと共に名古屋城へと出陣。


二の丸に於いて演武も披露致した。





して、皆より言われて気付くのは

夏装束を見るのが最後だ。

と言う声。



確かにそうであるな!!

言われてみれば。
なれど!十月からは甲冑に変わるだけの事。



明日は夏装束での最後の演武。
三英槍なのも何かの縁。楽しむべし。


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して、本日九月二十七日。

徳川殿が大坂城西ノ丸へと入った日である。



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一五九九年の事。
つまり儂がこの世を去った年。



時世として、秀吉が逝き
前田派及び徳川派に大名が解れ睨み合い

大坂城には儂が、京都 伏見城には徳川殿がおった事で
いつ戦となってもおかしくない緊張状態が続いていた時。


なれど、徳川殿は賢い男よ。

毛利、上杉、宇喜多の三大老に加え、三成、増田、浅野等奉行衆も前田派となる中

「今戦とするは得策ではない」

として、和議を結び
自身は伏見城を離れ、向島へと移った。



無論、儂は変わらず秀頼公の傅役として大坂城に入り政務を執り行ったのである。



だが、程無くして儂はこの世を去る。


加えて秀吉の奥方であられる
北政所こと おね殿が京都 三本木へと隠居。

そこで徳川殿が大坂城西ノ丸へと入り
当時大坂城には本丸と西ノ丸に天守が存在する有様となった。






、、、それから丁度一年後の今日。

徳川殿と嫡子 秀忠殿は大坂城にて秀頼公と面会をしておる。


年は一六○○年
関ヶ原の合戦が行われた年。
戦勝報告並びに領地分配等の話でもしたのであろうか。

これを以って、日を増す毎に豊臣家は弱体化していくのである。




儂としては後五年。
後五年は生きておれば、秀頼公の元服を見届けられたやもしれぬ。

なれど、それは叶わなかった。






徳川家康殿。


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朝鮮出兵の折には互いの屋敷を行き来して馳走し合った事もあった。

だが、政にて互いに手を取り合う事はなかった。

しかし現世に於いては盟友である。
この男の今も昔も変わらぬところは
日の本の、また名古屋の民が明るく暮らせる世を創りたいと思うておるところやもしれぬ。


此れよりも頼りにしておるぞ。









では、
此れにて御無礼。

前田 又左衛門 利家