先日から器やら国宝やら陶芸関連についての日記を書いておりますが、此度は美濃焼の衰退と復活について

我学びし美濃焼は徳川幕府の時代に移行した後、
立役者であった古田織部様が御自害なされると織部焼をはじめとした美濃焼は流行と共に市場から姿を消し
生産地であった美濃も一気に衰退の一途を辿り申した。

月日はザクッと流れ時は昭和五年

かの美食家であり芸術家であった・北大路魯山人 氏と親交のあった『荒川豊蔵』という人物が名古屋の地で見たことのある美濃焼の中の一つ"志野焼"

これと同種類の破片を桃山時代に使われておった美濃の窯跡で見つけ、
美濃焼衰退時の中で志野焼や織部焼は瀬戸地方で作られておったと誤解されて伝えられていた歴史を
破片を研究、立証する事によって美濃で焼かれておったと証明されました。


その功績が認められ荒川豊蔵 氏は人間国宝第一号となり、美濃焼も勢いを取り戻し今日に至ります!!

豊蔵氏が作品を作っておった「水月窯」は現在も現役で機能しており、事前予約にて見学も可能です。

拙者も以前お邪魔致しました(YouTubeで視れるはずっ)
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この場所で豊蔵氏は実際に作業しておったと想像すると静けさも相まって神々しく荘厳に見えてくる
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ちなみに豊蔵氏。

俵屋宗達画(風神雷神で有名な絵師)・本阿弥光悦(国宝:不二山の作者)の合作 

『鶴図下絵三十六歌仙和歌巻』(重要文化財:現京都国立博物館蔵)

の発見者でもあります!!


なんや国宝やら文化財やら色々凄い言葉が出てまいりましたが、この日記で拙者が言いたいのは今こうして美濃焼が盛んなのは豊蔵氏のやきものに対する情熱があったからこそっ!!と言う事。


そして最後に言いたいのは、水月窯の厠へ続く道は違う世界に迷いこみそうで勇気が必要だという事。
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決して振り返る事なかれっ!!


本日は雪降る中お越し頂きました皆様ありがとう御座りました!お風邪など召されませぬ様。
明日明日の伊達武将隊様との共闘戦も何卒宜しくお願い致しまする。

それではまた!


水月窯の敷地は何と無くゲゲゲの森だ
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