又左じゃ。




皆々、息災であるか。







二日続けて良き日和に恵まれ、城では三英傑の堂々たる演武が披露されておる事と存ずる。


そんな梅雨の晴れ間

六月二十四日、なにが起きたか。




織田秀信様が高野山を追放された日である。


皆々は秀信様を存じておるか?
このお方は、我が主君・織田信長様の御嫡孫である。



有名な話、本能寺の変後

「清洲会議」というものが行われた。


この会議は「誰が織田家の跡目に相応しいか」というのを決めるものであった。




この時、織田家宿老・柴田勝家様は信長様が三男・織田信孝様を推挙。

対して、山崎にて謀反人・明智光秀を討ち一躍第一線に躍り出た秀吉が推挙したのは
次男・織田信勝様ではなく
本能寺の変にて亡くなられし、信長様が御嫡男・信忠様の御嫡男・三法師様(後の秀信様)であった。


それが発端に起きた戦こそ、かの有名な賤ヶ岳の戦いじゃな。





ある意味、この勝利によって確固たる地位を築き始めた秀吉にとっては

秀信様の利用価値はなくなっていく…




されど、この時代において「織田」の冠は無視できぬもの。


故に秀信様は中納言という位を授かり

列席順も徳川殿やわしらに次ぐ位置におられた訳じゃ。





しかし、関ヶ原の戦いにおいては西軍に加担し

居城である岐阜城は福島正則らによって落城。


一時は自害をされるつもりでいたが、家臣らによって止められ
剃髪し高野山へ送られる事となる。



この時徳川家中では「降伏したとはいえ、生かしておくのは如何なものか」と声が上がったが

「織田」に所縁ある者多く、福島正則を始め「我が功名に変えて助命を」と願い出る者が多かった為に
高野山へ送られる事となる。





されど、高野山は信長様により標的になった過去があり

その御嫡孫・秀信様が高野山へ入るのを拒否していた。

高野山へ入ってからも、荒く扱われ

結果、高野山から追放されてしまう。
それが今日という日である。





この秀信様は容姿が信長様に酷似していたと言われ
服装も派手なものを好み

周囲も「信長公の如し」と驚いていた。



しかも、領民の為の政策も敷き慕われ

信長様が保護していた 鵜飼い の保護もなされ、今にも残る文化となった。





織田秀信様

秀吉・徳川殿の影に隠れてはおるが


「織田」の冠に恥ぬお方であったのに違いはない。





本当はまだまだ話したい。
なんせわしの生涯の主家・織田家の話故な。


座談会なら三時間は話すじゃろうな…





織田秀信様。


皆も覚えおくよう。






では、
本日はこれにて御免。

前田 又左衛門 利家