考えすぎ -206ページ目

覚悟

記事『吐き気』 でも書いたように、僕は、
「『良かれ』と思いつつ、知らず知らずのうちに自分の基準を相手に押し付けているような人」
を見かけると、たまに吐き気がする。


もちろん、
僕がこんな風に感じる、ということもまた、
僕の感じ方であり、僕の基準だ。
「吐き気がする」と言って嫌悪感を顕わにすることは、
その僕の基準を相手に押し付けようとしていることに他ならない。
だから、そう思うと僕は、
誰よりもまず、自分自身に対して吐き気がしてくる。
そして、自分のことを「偽善者だ」と感じる。


でも、そこで怯んでしまっていいのだろうか。
そこで怯んでしまったら、
「吐き気がする」という気持ちは、そこで封印されてしまう。
飲み込んだ言葉は、誰にも伝わらない。
ただ、僕の心の中で渦巻いているだけ。
・・・そっちのほうが、むしろ自己満足ではないか、という気がする。


だから、僕は覚悟する。
僕が、押し付けがましい人に対して生理的な嫌悪感を持っているように、
別の誰かが、僕に対して生理的な嫌悪感を持つかもしれない、ということを。
あるいは、既に持っているかもしれない、ということを。
そして何よりも、僕自身が僕自身を嫌悪することを。


それでもなお、伝えたい一心で、
僕は、僕の考えを言い続ける。
なかなか理解されないとしても、生理的な嫌悪感を持たれたとしても、
理解されにくければこそ、言い続ける価値があるのだから。


「それ」を伝えることが、本当に大事なら、
理解されない程度のことで怯んでなんかいられない。
誤解されることだって、嫌悪されることだって、覚悟の上。


自己嫌悪の塊にだって、なってやるさ。
仕方ない。

吐き気

聞き心地の良いことばかり言うんじゃないよ。
言うだけなら簡単さ。
でも、無責任じゃないか。


もちろん、ただ言うだけじゃなく、
心から本気でそう思ってるのかもしれないけど、
それって実は、独り善がりな自己満足なんじゃないの?


「偽善者」
・・・僕には、どうしても、そう感じられてしまう。
ひねくれた性格でごめんね。


そうだよ。この僕も同じ、偽善者なんだ。

「考えても仕方のないこと」について考えること

「考えても仕方のないこと」は、たくさんある。


死んだら自分はどうなるのか、とか、
宇宙の果てはどうなっているのか、とか。
この世界が存在しているのはなぜか、とか、
どうしてゾウやアサガオではなく人間として生まれたのか、とか。



つまり、「考えても仕方のないこと」とは、
いくら考えても答えが出せない(ということが明らかな)ことである。


死んだらどうなるのかは、死んでみるまでわからない。
宇宙の果てを実際に確かめることはできないし、
世界は既に存在してしまっている。
人間として生まれたのも、それが事実なのだから仕方ない。




「考えても仕方のないこと」を考えるのは、ナンセンス(=無意味)だ、
と言われることがある。
考えても答えの出ないことについて問うことは、
答えの出ないのが既にわかっている以上、確かに、論理的にはナンセンスである。


しかし、それはあくまで「論理的には」であって、
実際には、
「『考えても仕方のないこと』について考えること」自体は、決してナンセンスではないだろう。


例えば、仮に、
「死んだら自分はどうなるのか」を問うことが論理的にナンセンスであったとして、
それがナンセンスであることに気づくためには、
まず、そのことについて考えてみることが不可欠だったはずだ。
なぜなら、まず考えてみなければ、論理的にナンセンスかどうかの判断もできないはずだから。


つまり、
「『死んだら自分はどうなるのか』を問うこと」自体は、決してナンセンスではない。
問うことによって、その問いがナンセンスであったことに気づくのだとしたら、
それは決して無意味などではない。


「『考えても仕方のないこと』について考えること」自体は、決してナンセンスではない。

ありとあらゆる感覚と経験

ありとあらゆる感覚を味わうために、
「僕」は生まれてきた。


その証拠に、
日々、こうして様々な感覚を味わっている。


嬉しさ。
楽しさ。
悔しさ。
明るさ。
暑さ。
だるさ。
眠さ。
痛さ。
おいしさ。
まずさ。
臭さ。
怖さ。
涼しさ。


・・・こうして文字にしてしまうと、何とも無機質だ。
本当は、もっと強烈な感覚なのに。
でも、伝えようとすると、
多少無機質でも、こうして言葉で伝えるしかない。


僕は、言葉で伝える道を選んだ。
この不自由な、「言葉」という道具を使いこなすことにした。
不自由だからこそ、面白いのかもしれない。


生き甲斐。
幸せ。
嘆き。
諦め。
憎しみ。
愛情。
友情。
死。
勇気。
感動。
陶酔。
正義感。
希望。


ありとあらゆる経験が、
過去から未来にかけて、いつも「僕」を待ち受けている。
これらの感覚や経験は、
決して、本の中だけのものでも、他の誰かのものでもなくて、
全部が全部、「僕」のものだったのだ。


もし、まだ経験していないとしても、
それは、きっと、いつか経験するためにある。
「僕」は、すべてを経験するために生まれてきたのだ。
僕が経験しうること、そのすべてを。

目まぐるしい

時間の経つのが早くなってきた。


アルバイトを始めて、まだ、たったの2週間しか経っていないのに。
とても、そんな気がしない。
もう、そろそろ寝なければいけない時間だ。
目まぐるしく日々が過ぎていく。



でも、このブログをやめる気は、まったく無い。
忙しくなったおかげで、
今まで以上に、瞬間的に感じたことだけを書けるようになった。




荒削りの僕の実感。
それを、これからも書いていく所存。

「悪気がないこと」、「悪いこと」

「悪気がないこと」は、「悪くないこと」とは違う。
たとえ悪気がなくても、悪いものは悪いのだ。


しかし、現実には、
「悪気がないこと」は、
「仕方がない」という表現によって、「悪くないこと」にされている場合が多い。




例えば、凶悪な犯罪者が精神病であった場合。
その犯罪者は、
「そもそも精神的に異常だったので、本人には責任がない」
という判断により刑を免れることがある。


でも、被害者やその身近な人は、それで納得するだろうか。
「精神的に異常だったのなら、確かに悪くない」
と思えるだろうか。
仕方がなかった、と仮に思えたとしても、
やはり、悪いことだったことに変わりはないだろう。




大多数の人にとっての「仕方のないこと」は、
便宜上、「悪くないこと」として扱われることが多い。
そのように扱っても大多数の人は不平を言わないし、ちゃんと社会の秩序は保たれる。
つまり、これは、「社会におけるルール」であるともいえる。


インフルエンザに罹ったら、休むのは悪くない。
むしろ休まなければいけない。
これが社会の常識であり、社会におけるルールである。


・・・しかし、だからといって、
そのことによって本業に支障が生じること自体が、まったく悪くないわけではない。
例えば、
もし、日頃から健康に気を配り、体を鍛えている人がいて、
その人が、そのおかげでインフルエンザを予防できていたとしたら、
インフルエンザに罹ってしまった人は、その人に比べると「悪い」と言えることにもなりはしないだろうか。


もちろん、にべもなくこのように言ってしまっては、
インフルエンザに罹った人にとっては非常に酷だろう。
だから普通は、こんなことを言われたりはしないし、
きっと、ほとんど誰からも思われもしない。
むしろ、責任を強く持ちすぎて罪悪感に苛まれてしまうことのほうが、好ましくないことである。
そういう意味では、
「仕方ない」の延長として「悪くない」と思っておくことは、
精神衛生上、むしろ大切なことである。



けれども、
そうだとしても、それがそのまま
「悪くない」
という事実と結びつくわけではない。


「悪くない」と思うことと、「悪くないこと」。
この二つは、きちんと区別されなければならない、と思う。

怖さ

「飛行機に乗るのが怖い」
と言うと、笑われることがある。


笑う人は、こう説明する。


人間、生きる上で、
自動車事故で死ぬ確率のほうが、よっぽど高いのだ。
飛行機は、飛ぶのが当たり前の乗り物だから、
落ちることは滅多にない。
空には障害物もないし、パイロットはプロだ。
そのことから考えてみても、自動車のほうが遥かに危険といえる。
自動車に乗る時は怖がらないくせに、
飛行機の時だけそこまで怖がるなんて、理屈に合わない。
怖くなるのは、おそらく、
たまにある飛行機事故のニュースの印象が強すぎたりして、
そのイメージに支配されているからだろう。



・・・この説明そのものは、ある面では、確かに正しい。
でも、その正しさとは、例えば、
「赤とは、約700ナノメートルの波長の光が持つ色のことです」
と説明するような正しさであって、
科学的ではあるものの、まったく実感に欠けている。




人は、確率やデータをもとに生きるよりも前に、
まず実感のうえで生きている。


「飛行機に乗るのが怖い」
という実感を持っている人に向かって、
そのような実感を持っていない人が、科学的な根拠を持ち出してその実感を否定すること。
それは、まったく筋違いなことだと思います。



同じようなことが、
「幽霊を怖がる人」
「虫を怖がる人」
「高い所を怖がる人」
「死を怖がる人」
それぞれに言えるでしょう。


ちなみに僕自身は、
「死を怖がる人」で、その意味も含めて「飛行機を怖がる人」です。
でも、幽霊は怖くありません。信じていませんから。
虫は、悪さをしなければ嫌いではありません。
高い所も、安全な場所であれば平気です。


でも、
幽霊や虫や高い所が怖い人にとっては、きっとそれらはとても怖いのだろう、
と思います。

本、読みたくなってきた

最近、ほとんど本を読んでいません。
アウトプットばかりしていて、インプットが疎かになっています。
読みたい本、買って置いてあるんですが。
手もつけないまま、「積ん読」しています。


アルバイトも始まったことだし、
行き帰りの電車も意外と座れることが多いから、
これから読んでいこうかなぁ・・・と。思ってます。


久しぶりに、日記らしい日記を書きました。



7月9日(日) 曇り

理想と現実の関係

理想は、
追い求めるものであって、
必ず実現させるものではない。


もちろん、理想を追い求めるからには、
実現に向けて努力する。
この姿勢は間違っていない。


でも、
「必ず実現させよう」
とするのは間違っている、と思う。




必ず実現させようとすると、
実現させたい気持ちばかりが先走って、
その結果、肝心の理想そのものが歪められてしまう恐れがある。


「理想に手が届かない状態」に長く甘んじていられるほど、
人間は強くない。
そして、言い訳を始めるのだ。

「初めの理想は、机上の空論だった」

「理想ばかりを追い求めて、現実がわかっていなかった」

「私は、頭でっかちで未熟だった」など。



必ず実現させようと意気込むと、
かえって、理想を現実のほうに合わせてしまう恐れがある。
だから、理想が本当に理想ならば、
そんな簡単には実現しない、と思っておいたほうがいい。


実現するとしても、100年後とか、1000年後とか。
それくらいの構えで、
その実現のために、自分にできる範囲のことで地道に努力したほうがいい。
もし、それが本当に理想ならば。

『ブロガーは思う』掲示板

『ブロガーは思う』 に関する疑問・要望・提案などは、ここにお願い致します。


なお、リクエストに応じて、
順次、『ブロガーは思う』 についての説明文を追加していきます。
ご不明な点等がございましたら、どなたでも遠慮なくおっしゃってください。


----------


設置カテゴリ(2006年9月8日現在)


・ 人間/人生
・ 言葉/コミュニケーション
・ 心/感情
・ 記憶/思い出
・ 現実/現在
・ 時間について
・ 知覚/感覚
・ 意識/無意識
・ 生きること
・ 死ぬこと
・ 幸せについて
・ 善と悪
・ 病気について
・ 仕事について
・ 教育について
・ 子供と大人
・ 科学
・ 芸術
・ 愛について
・ 友情について
・ 美について
・ 政治/社会
・ 疑問に思うこと
・ 『ブロガーは思う』関連記事
・ 掲示板