とある広告でこんな文を目にした。

自分は普段からあまり助手席に座らない。

運転手と二人、という場合もだ。

意識しているわけではないが、特別な場合やなにか言われた時以外は自然と後部座席に座ろうとする。

怖いというわけではない。おそらくは。

いや、もしかしたら怖いのかもしれない。誰かの横に座るということが。

無自覚なだけで、誰かの後に常にいることを選んでいるのかもしれない。無自覚に自分を守っているのかもしれない。

自分の生き方というのは常にそんな感じだ。常に誰かの後にいる。常に誰かを前に行かせる。だからそうであっても不思議じゃない。いや、そうであるべきなのだろう。

誰かの後をついて歩くことを選んだ人間はおそらくずっとそうしていなければならないのだ。変に出しゃばってはいけない。あいつはどうしていつも後でガタガタと震えているのだろう。どうしてあんなに臆病なのだろう。少しは前に出る方の気持ちにもなってくれ。この憶病者。そうやって思われ続けることが、他人を盾にする対価なのだと思う。

前に出ながら盾を構えようとする自分は、そうやって蔑まれて生きていくしかないのだ。みんな自分より下を当てにしているのだから。次の足場が見えなければ飛び立つことさえ出来ないのだろう。自分もそうだ。

ならば喜んで、足場になろうじゃないか。


ひとを励ますのって難しい。

自分にとっては暖かい励ましの言葉でも、相手にとっては冷たく鋭い刃物だったなんてこといくらでもある。

自分の何気ない一言が、今日も誰かの心を抉るのだろう。

それでも喋るのを止めることはない。汚れた人間だなあ、自分は。

物語を見て涙を流すことは少なくない。

むしろ誰かの気持ちに同調しなければ、涙を流せなくなってしまった。

泣くことが悪いことのように幼い頃教えられた。

昔は酷く泣き虫だった。喧嘩をしては泣き、怒られては泣き、転んでは泣き、とにかく本当によく泣いていた。

あの頃から弱かったのだと、今では思う。

いつからか泣き虫ではなくなったが弱い所は変わらないままだ。







自分はこの画面越しの世界が好きだった。

けれどやはり恐ろしい。わかっていたつもりだが、やはり。

白い夢を見たまま、帰れなくなりそう。そんな気分だ。もしかしたら限界なのかもしれない。

なんて、自分が言っているのを見たら、あの人はどんな顔をするだろうか。


なんて



今日駅の近くにある踏切を渡っているとき、すれ違う人々の中から突然自分の名前を呼ぶ声がした。

驚いて振り返ると自転車に乗った友人、いや知人がこちらを見ていた。

足早に過ぎ去る人々に呑まれそうになりながら、どうにか相手の名前を呼ぶことが出来た。

会話が出来るような状態ではなく、お互いの姿を目と耳で確認でさよならをした。


相手は全くと言っていいほど変わっていなかった。

久々にあったためにあまりの変わってなさに驚いた。同時に、安心した。

まあ久々と言っても一年ないし半年と数ヶ月と言ったところだったが。

しかし何より嬉しかったのは、相手のほうから気が付いてくれたと言うことだった。

自分が変わっていないことに安堵したというよりそれは、髪を切ったばかりの自分でも知っている人間だと認識されたことに対しての安堵感。


相手は友人と言うほど親しくなかったが、自ら口を開くことの少ない自分に話しかけてくれる貴重な人だった。

相手にとって自分はどんな人間だったのだろうか。面倒くさいの一言だったかもしれない。




自分はきっと、このひとを嫌いだとは思っていないとおもう。

機会があれば偶然また逢いたい。今度はもう少し言葉を交わしても良いかもしれない。

もちろん相手がそれを望んでいるかはわからないが、きっと許してくれるだろう。

こんな風に考えるのは甘えだろうか?