最近の挨拶や部活紹介で耳にすることが多くなってきた
「平松先生によって創部されて元気いっぱい、笑顔いっぱい、夢いっぱい・・・・・」
1961年に創部して直ぐに当時珍しかった女子高校生にマーチングを取り入れたのだから「神格化」されても当然と思い込んできた。処が最近90年代の動画を見て些か疑問が生じてきた。一部の定期演奏会のものだけど気になっていたマーチングステージもある。
これらから推察すると当時の定期演奏会の構成は
1部 制服によるコンサートステージ
2部 マーチングステージ
3部 マーチングステージ
4部 赤ブレザーによるポップスステージ
になっていたようだ。マーチングステージの衣装はこの頃は移行期でオレンジが正装に決まったのは1996年という。
1992年1月15日の第28回定期演奏会
恐らく第3部だろう。今と比較すると体の動きが硬い。SING×3をやっているがこの頃には既に「ワ~キャー」をやっている、注目するのはサイドに並んだパーカッション 全くの棒立ち状態で顔が死んでいる!!
各パート毎に出てきて「お別れの挨拶」するパターンは既にできているが使用曲は決まっていなかった。
1993年1月10日 第29回定期演奏会
第2部オレンジユニでのマーチングステージ
オープニングはこれが定番だったかも、平松先生が出てきて指揮をしている。司会はいつもこの方で「今日のメインイベント」と言っているので「橘はマーチング」との認識は出来上がっていたらしい。
マーチングの振り付けやフォーメーションは極めてシンプル。
第3部青ユニでのマーチングステージ
バトン部は披露機会が無い事と後述する前顧問の話から衣装替えの時間として入れていたようでかなり後まで続いていた。平松先生の指揮で始まる、マーチングハットを使用している為か軍楽隊風な印象を受けてしまう。「お別れの挨拶」は明日にかける橋。最後は平松先生の指揮で幕が下りる。
第4部 ポップスステージ
赤色のブレザー着用で始まるが指揮は若い先生が振っている。平松先生は2年後に退職するので本来はこの先生が後を継ぐと思うが何故か田中先生が呼ばれることになる。後半から平松先生登場、途中で立ち上がったりベル振りをしたり、拍手を入れたりして見せ場を作っているが「やらされている感」があり全く楽しくない。最後は「旧友」
1994年2月27日 第30回記念定期演奏会
第1部 制服姿によるコンサートステージ
平松先生の指揮で始まり後半のアメリカ人は何らか交流があった高校の関係者か?
第2部青ユニでのマーチングステージ
冒頭の構成は前年と同じだが使用曲は変わっている。未だ定番曲が無かったみたいだ。マーチングハットを外したせいか軍楽隊調は薄まっているし身体の動きが柔らかくなってきた。
第3部オレンジユニでのマーチングステージ
足の運び、身体の動きが随分と滑らかになってきた。明らかに変化の兆しが見える。「moon river」は3年生のステ ージ、左端のクラリネットは黒の長靴でその年のDM。最後は驚きの「down by the riverside」少し「ショー」化していてひょっとして宮コーチの影があるかも。「お別れ」に現在の「セーリング」が登場した。
第4部ポップスステージ
テキーラでの動きは随分と様になってきた。この年は30回記念ということでアンコールの「旧友」をOGとの合同演奏で2回やっているが、今年の60回記念のような感動的な場面はなかった。
以上を見てくると幾つかの疑問が出てくる。勿論全て抜粋なので間違っているかもしれないが
定期演奏会の中心は平松先生ではなかったか?各ステージの最初と最後は必ず指揮をして出ている。そして最後はポップスステージでマーチングステージではない。これは座奏が本来の姿でマーチングはお楽しみコーナー的なものとの古い考えを持っていたのではないか。そして平松先生のマーチングは「古いタイプ」である。何より最後は「旧友」で締めくくる為の構成かとも思える。
平松先生は「旧友」が大好きで色んな所で指揮しているし、「チョット昔の橘っ子」のコンサートも最後は「旧友」だ。尤も昔懐かしが集まっての「旧友」には意味があるかもしれないが。
因みに「旧友」はドイツ陸軍の行進曲で日本の「軍艦マーチ」アメリカの「星条旗よ永遠なれ」と共に3大行進曲と言われており極めて軍隊色が強い。平和をモットーとする女子高でこれを演奏し続けるというのはどうだろう。
最も気になったのが顔の表情である。年を追うごとに少しずつ変化はみられるものの笑顔がほとんど見られない。京都橘の魅力は数多くあるけれど一つと言えば笑顔である、どんなに苦しくてもお客さんには笑顔を届ける、今では普通になっているがこの頃は能面のような表情で楽しさが全く感じられない。「笑顔いっぱい」は何処に行った。
個人的にはある事件のことが頭から離れない。翌1995年3月、新顧問となった田中先生が初めて橘を見に行った時の事。新3年生が2年生を整列させて罵倒し続け何人も倒れた、先生は怖くなって準備室に隠れていたという黒歴史。その時の生徒達がこの中にいる。平松先生はそういうことに全く無頓着であったという。
元気いっぱい
笑顔いっぱい
夢いっぱい
今も続く橘のモットーだけれど始まりは何時からだろう?
1996年から2006年にかけてのソロを集めた動画がある
二人目のトランぺッターは1997年入部で1年生からソロを担当し歴代No1と言われている(らしい)。この年には今と変わらない笑顔が見えている、いつ変わったのだろうか?
参考になるのがカリスマ藤重先生の話。うろ覚えなのだが当時厳しい練習をやっていたのがマーチングの練習に外部講師を頼んだら、生徒達が実に楽しそうな笑顔を見せていて「これだ!!」と思って練習方法を変えた。「笑顔は心のビタミン」の言葉はこの頃に思いつかれたのだろうか。
橘もそうではなかったか、宮氏にコーチを頼みに行ったのは部員達であったという。(時期は不明)当時は阪急少年音楽隊のコーチをしていたはずだが何かの機会に知ったのだろう。1994年にマーチングスタイルが少し変わり始め平松先生が退職された・・・・
1996年からの3年連続全国大会出場による特別演奏会の動画。あの1年生トランぺッターも3年生になっていた。テキーラでは会場から手拍子も・・・・
これが宮コーチによるものだとすると橘の変化の年が一つ増えることになる。宮コーチが急逝したことで暗黒の時代を迎えた京都橘。橘の特徴ともいわれる「生徒主体」の運営は「誰も教えてくれない」中で苦闘しながら編み出したのではないだろうか?あのSING×3も横山コーチが「こんなん出けへんか?」と持ち出して最終的に決めたのは生徒達だった。
定期演奏会も田中先生により変わり前半は座奏、後半マーチングになる。
1997年に形を変えてマーチングステージはwinter gamesで始まり最後はセーリングにしたのが今でも残っていて良かったとの感想。言い換えればその他はすっかり変わってしまって残念と言うようにも聞こえる。
時代により変化していくのは当然だが、京都橘高校吹奏楽部を創設し最後には兼城先生という指導者を見つけたという功績は讃えられるべきだ。半面、橘は(言い方は悪いが)私のものという意識(後継者を田中先生や兼城先生を指名したりする)や「旧友」に感じられるような厳しい上下関係を容認するのはどうなのか。
亡くなった方を神として崇めるのは日本人として普通かもしれないが本当に「神様」か?
元気、笑顔、夢
を掲げたのは一体何時からだろう。
蛇足ながら「奇跡の吹奏楽部」はどの様にして誕生したのかを知りたくて過去を追ってきてその纏めとして「橘史記」を書きかけていた(遊びです)。古代編として
古の事、天之原に比羅真津火佐詩尊 ありて音を楽しむも肺に病を得て京の都に降りし給いぬ。1961年 音橘姫等17人ここに集い元気笑顔多夢の志を持って橘舞楽団を作り給う
云々
神様がいなくなり計画は瓦解した、実に暇人である。