僕は話すのが嫌いだ。

嫌いというより、億劫と感じる。億劫と感じるのは、人に興味がないからだと思う。自己分析の結果だ。
話すのが嫌いなのだけれども、話す仕事をしている。本音とは真逆の行動を取っている。
なぜなんだろうと自問自答してみた。おそらくこうだ。僕は人と話をすることで、自分の存在を認識したいのだと思う。
自分の存在を確かめたいから、話をする。話をすれば、反応がある。反応は、相手が存在し、自分が存在していることを証明する。

ただ存在を確認するだけでは、つまらない。もっと、自分はこうだとか、自分は優れているとかを感じていたいのだと思う。自分の存在と存在以上のことを感じるために、教えるという行動をとっている。
教えて、相手が成長したり、効果が出たり、結果が出たりすることで、自分の存在以上のことを自分の中に何かが存在しうると感じられる。

人間は性の衝動と、認められたい欲で生きている。そんなことを言った賢人がいるけど、それは真理だと思う。僕は、認められたいという気持ちなのか分からないけど、自分で自分を認めたいのかもしれない。

僕は話すのが嫌いだし、人に興味がない。そして、人と話すときに喜びを感じ、人を知りたい欲求が強い。矛盾はしているけれど、これも真実。所詮世の中、矛盾だらけだから、自分の心の矛盾を甘んじて受け止めようとも、開き直っている。最近の話。


昨日も「セールスの学校 セールス心理学科 第1期生 DAY2」を終えた。参加いただいた方のセールスが、初回講義よりも、格段に上達していた。受講者の上達を僕が肌で感じられたときに、僕は本当に教える喜びで溢れた。湧き上がって溢れてしまう涙のように、喜びが身体中を埋め尽くした。「セールスのスキルが上達していることを、実感しています」と、嬉しい声も聞かせてくれた。これはクセになる。おそらく、この瞬間に脳内物質が分泌されているのだと思う。エンドルフィンだっけ?さしづめ、僕は教えジャンキー(中毒)なのかもしれないな。

他人と言う存在に興味はないけれど、自分の存在を味わえる他人は、もはや他人ではく、自分の一部にも思える。だから受講者は他人ではなく、自分なのだ。自我の定義は、誰かが考えたものだから、僕も新しい定義を考えても許してもらえるかもしれない。だから、定義する。


世の中は自分であり、自分が世の中である。



おっと、待ち合わせの時間つぶしに
わけのわからないことを書いちゃった・・・・・・