自己紹介はこちらから

 

 

三十章⑤

 

 

 

 

 ハルシュタットは、湖と山に挟まれ

た土地にできた、小さな町だった。

 

 夕方、湖畔のホテルに着いた。部屋

に荷物を置いて、湖を見渡すレストラ

ンで食事を取った。たどたどしい英語

が何とか通じて、事が進んだ。

 

 他の人達とのコミュニケーションが

少ない分、二人だけの世界に焦点が合っ

て、際立って見えてくる気がした。

 

 部屋に戻って、二人で湖面を眺めた。

 

「初めて見るきれいな景色って、気持

ちまで優しくしてくれるね。

 

それにしてもこの部屋、とっても素朴

で、眠くなるくらい落ち着く。

 

咲君、好きでしょ。」

 

「うん、ああ、俺の好みだね。」

 

「デイア・サウス・カフェとか、ジェ

シー鈴木美容室なんか、あなたの初期

の仕事にはこんな風な雰囲気があるも

のね。

 

でも、ちょっと違うかな。ここにはね、

懸命に生きて、一人では生きていけな

いことを知った人達の、人を見守るよ

うな優しい空気が流れている。」

 

「はーん、なるほどね。そうなのか。

俺達はきっと、それを『歴史』と言っ

ているんじゃないか。」

 

 ホテルや湖に面する建物の灯りを、

夜の湖面がゆらゆらと映している。

 

「私、こんな景色を見たことがある。」

 

 百合子が隣りに寄り添い、腕を回し

てきた。

 

「もう、一昨年になるのかな、初めて

デイア・サウス・カフェに行った夜に

ね、健太君達に送ってもらったの。

 

あの夜のね、根岸の海岸の景色に少し

似ている。黒い海に大きな満月が映っ

ていて、その映った月がこんな風にね、

ゆったりと、ゆらゆらとしていた。」

 

「俺もその夜、新港埠頭に居て、その

月を良く覚えている・・・大きくて紫

がかっていた。」

 

 咲人は百合子の腕を外して向き直り、

彼女を両腕で包んだ。それから顔を近

付けて、百合子の唇に自分の唇を重ね

た。

 

 百合子の唇が温かい。

 

 

 

       < 続く >