satofumiのブログ

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しばらくテスト期間です..


# 若きダーウィン、最初の衝撃:ベルデ岬諸島・サンティアゴ島上陸記(1832年1月17-19日)

1831年、英国を出航したビーグル号。若き博物学者チャールズ・ダーウィンにとって、1832年1月に到着したベルデ岬諸島のサンティアゴ島は、生涯忘れることのできない「科学的探究の出発点」となりました。

彼の日記から、未知の世界に触れた瞬間の瑞々しい興奮を辿ります。

* * *

### 1月17日:火山岩とサンゴ、想像を超えた美との出会い

朝食後、私は艦長と共にクウェイル島(プラヤ湾に浮かぶ小島)へ向かった。

一見するとみすぼらしく、辺鄙で小さな島だ。しかし、ここで得た鮮烈な印象が私を去ることはないだろう。

**「地質学者にとって、火山岩の最初の調査は記憶されるべき瞬間である」**

そう記した私の目の前には、火山岩の上に成長するサンゴの群生が広がっていた。エディンバラで潮だまりの小さなサンゴを眺めては大きな成長を夢想していたが、実物の精巧な美しさは、私のどんな「白昼夢」も及ばないほどだった。

午後は熟したタマリンドの実とビスケットで簡単な昼食を済ませる。

日差しは強いが、英国の夏とさほど変わらない。ただ、大気は不思議な霞と澄明さが混ざり合い、遠くの景色が溶け合う一方で、近くの岩の角は鋭く、色の層がはっきりと見えた。

この不毛で孤独な景色は、アンデスを知る者には物足りないかもしれない。しかし、植生に邪魔されない剥き出しの地形には、真のアフリカを思わせる「壮大さ」が宿っていた。

### 1月18日:熱帯の味覚と地質学への没頭

この日は日記を書く暇もないほど、クウェイル島での地質調査に明け暮れた。

あまりの暑さに、タマリンドと大量のオレンジで喉を潤す。

夕食に並んだのは、バラクーダの魚料理とサツマイモ。

まさに熱帯の食卓。この土地にふさわしい、完璧な献立だった。

### 1月19日:孤独な荒野に宿る「言い知れぬ喜び」

士官候補生のマスターズと共に、海岸沿いから内陸へと歩を進めた。

これほどまでに不毛な場所を、私はかつて想像したことがなかった。

見渡す限り、焼けた黒い岩が重なり合う孤独な平原。しかし、熱帯の太陽の下、この荒れ果てた砂漠のような島を歩くことには、言葉に尽くせぬ喜びがあった。

**「3日間が、無限に長く感じられる」**

次々と見つかる新しく興味深い標本の数々に、私のコレクションは驚くべき速さで増えている。あまりの収穫に、「英国にこれらを精査できる勇気のある学者はいるだろうか」と、贅沢な不安さえ覚えるほどだ。

プラヤ港に到着した16日が、もう遠い昔のことのように思える。

* * *

### 【当時の観測データ】

ビーグル号の航海日誌より、当時の厳しいながらも美しい気候を振り返ります。

| **日付** | **天候・風向** | **気温 (℃)** | **水温 (℃)** | 
| ---- | ---- | ---- | ----  |
| **1月17日** | 北北東(風力5)、雲を伴う青空 | 23.06℃ | 22.22℃ | 
| **1月18日** | 東微北(風力4)、青空とスコール | 23.89℃ | 22.50℃ | 
| **1月19日** | 東微北(風力5)、雲を伴う青空 | 24.17℃ | 22.50℃ | 
* * *
[日記原文] 17th Immediately after breakfast I went with the Captain to Quail Island. -- This is a miserable desolate spot, less than a mile in circumference. It is intended to fix here the observatory & tents; & will of course be a sort of head quarters to us. -- Uninviting as its first appearance was, I do not think the impression this day has made will ever leave me. -- The first examining of Volcanic rocks must to a Geologist be a memorable epoch, & little less so to the naturalist is the first burst of admiration at seeing Corals growing on their native rock.- Often whilst at Edinburgh, have I gazed at the little pools of water left by the tide: & from the minute corals of our own shore pictured to myself those of larger growth: little did I think how exquisite their beauty is & still less did I expect my hopes of seeing them would ever be realized. -- And in what a manner has it come to pass, never in the wildest castles in the air did I imagine so good a plan; it was beyond the bounds of the little reason that such day-dreams require. -- After having selected a series of geolog. specimens & collected numerous animals from the sea -- I sat myself down to a luncheon of ripe tamarinds & biscuit; the day was hot, but not much more so than the summers of England & the sun tried to make cheerful the dark rocks of St Jago.- The atmosphere was a curious mixture of haziness & clearness -- distant objects were blended together: but every angle & streak of colour was brightly visible at the short distance on the nearer rocks. -- Let those who have seen the Andes be discontented with the scenery of St Jago. I think its unusually sterile character gives it a grandeur which more vegetation might have spoiled. -- I suppose the view is truly African, especially to our left, where some round sandy hills were only broken by a few stunted Palms. -- I returned to the ship heavily laden with my rich harvest, & have all evening been busily employed in examining its produce. -- 18th I have been excessively busy all day & have hardly time to write my days log: the little time I was out of my cabin, I spent geologising on Quail Island.- The day has been very hot: & I have feasted on Tamarinds & a profusion of oranges, -- for dinner I had Barrow Cooter for fish & sweet potatoes for vegetables: quite tropical and correct. -- 19th I took a walk with Musters. I went to the West along the coast, & then returned by a more inland path. -- My imagination never pictured so utterly barren a place as this is -- it is not the absence of vegetation solely that produces this effect: every thing adds to the idea of solitude: nothing meets the eye but plains strewed over with black & burnt rocks rising one above the other: And yet there was a grandeur in such scenery & to me the unspeakable pleasure of walking under a tropical sun on a wild & desert island. -- It is quite glorious the way my collections are increasing. I am even already troubled with the vain fear that there will be nobody in England who will have the courage to examine some of the less known branches. -- I have been so incessantly engaged with objects full of new & vivid interest: that the three days appear of an indefinite length. -- I look back to the 16th as a period long gone by.   
[日記原典] **_"Charles Darwin's Beagle Diary" _ed. by R.D.Keynes, Cambridge U.P., 1988.**

 [参考] 訳文は私的な研究目的の仮訳に基づいています。
 

2025年4月4日は清明の日です。

この日、太陽の黄経が15度となります(21:49JST)。

 

太陽は天球上北半球にあり(この日赤緯で北緯5度50分)、上昇してゆきます。

金星は明けの明星ですが、今の所まだ肉眼では見やすい位置ではありません。

 

次の二十四節気の節目は4月20日の雨となります。

 

 




ビーグル号とは

ダーウィンが1831年12月から1836年10月までの間の航海の間乗っていたビーグル号とはどういう船だったのかということを見てみたいと思います。参考文献は最新の資料をもとに書かれた次の本です:
Keith Stewart Thomson, "HMS Beagle", W.W.Norton, 1995, New York/London.

ビーグル号(HMS Beagle)はロンドンのテームズ川にあるウーリッジの造船所で建造され、1820年の5月11日に進水しました。その時代はナポレオン戦争直後、1814-15年のウィーン会議後のヨーロッパ新秩序のもとで、海上はそれまでに比べれば平穏な時代でした。で、ビーグル号は最初建造された時、10個の砲門を持つ2本マストのブリッグ型の帆船でした。
ナポレオン戦争の前後、あるいはそのしばらく前からですが大型の艦船が主流となっていた英国においては、ビーグル号はとるに足らないほど小さな船で、ほとんど記録が残っていないようです。(注:例えば、1805年のトラファルガー海戦でのネルソン提督の旗艦ヴィクトリー号(HMS Victory)は110門の砲を持っていたそうです。)
また、ビーグル号の時期は帆船から蒸気船への推移が行われつつあった頃で、ビーグル号の姉妹艦のなかには最終的には蒸気船の曵き船に改造されるものも多かったと言います。ビーグル号は最初特に明確な目的を持って建造された船ではなく、ただ同種の何隻かのひとつとして建造されたようです。
それで、ビーグル号の初期の形の設計図はビーグル号自身ではなく姉妹艦のものを参照しないと分からないんですね。同形の船は沈みやすいことで有名で"coffin brigs(棺ブリッグ)"などとあだ名されていたようです。実際には後にビーグル号は世界周航において難所をいくつも乗り越えてきていて、結果としては極めて安全な船だったということになりますが、これはフィッツロイ艦長や士官、そして水兵たちの技倆がすぐれていたことだけではなく、ビーグル号が進水後2度にわたる大きな改造を受けていることにもよるかもしれないと言われています。しかしそれにしても、初期の(姉妹艦を含めた)設計が本当にそのようなあだ名を受けるほどのものであったかどうかについては疑問の残る所でもあるようです。なぜならその基本的な設計で船が造り続けられていたからです。
ビーグル号の初期の建造では満載排水トン数297トン、喫水12.5フィート(3.81m)、船首から船尾まで90フィート4インチ(27.53m)、最大横幅24フィート6インチ(7.47m)でかなり小さな船で、2本マストでした。特にビーグル犬の飾りなどは付けられていなかったようです。当時の海軍の標準どおりの黒い塗料が塗られ、上部に広い幅の白いストライプが塗られていたはずです。初期の建造では下甲板の採光が非常に悪かったようです。艦長の部屋は船尾にあり、そのさらに後ろにパンの貯蔵室があり、上甲板船尾の左舷側に信号旗のロッカー、右舷側にWCがありました。
小さな船ですから65人も乗るとなるととても大へんだったと思われます。艦長は通常一人他の士官たちとは離れた部屋にいて、副官や船医などはまた別ですが、その他の士官たちはその初期の設計では"食堂(messroom)"と呼ばれるところにいるわけです。
このクラスの船は90トンの真水、6.5トンの食料、6トンの石炭や薪を積むことが出来たのではないかといいます。このほかに2000ヤード(1829m)ほどの予備の帆布、船首錨を3つ、中錨を1つ、そして小さな副錨を1つ持ったようです。もちろん一応軍艦ですから平和の時期でも砲や火薬などを10トンは積んだだろうといわれます。これらを積んで補給なしで航海できる期間の長さは3ヶ月だろうということです。

操船は難しかったようで、ある統計では、1808年から1845年までに建造された(初期のビーグル号と)同様の船107隻のうち26隻が難破または沈んでいるけれども理由は不明となっているとのことです。操船が難しいだけでなく、帆走の性能があまりよくないとのコメントも多く見られたようです。(注:条件が良い場合で対水面速度時速9ノット(16.67km/h)程度だろうとも言われてます。)
しかし、それは次のように解釈出来るのではないかといいます。このクラスの船が最初に建造された頃はまだナポレオン戦争の時期で、海上は不穏でした。小さな艦船も厳重に武装して航行しなければならなかったわけです。ところがこれらの船は砲を上甲板に積まねばならなかったようで、重心が高くなってしまう傾向があったのではないかということです。ところが、ビーグル号が建造された時はすでに海上は平和の時代で、武装面では軽装備で良くなり、そうなればもう帆走面での性能に問題はなかったのではないかということです。特に、ビーグル号のフィッツロイ艦長は、改造後のビーグル号についてですが、この船はとても優れた船だということを強調しているようです。もちろん自分の監督して改造した船だという自負もあったでしょうが。ダーウィンが、ホーン岬近くで時化のために進行ままならないビーグル号上で、この船はとても出来のよい船なんだと2回ほども自分に言い聞かせるように日記に書いているのが印象的でもあります。

さて、上に述べましたようにビーグル号は他の姉妹艦と前後して1820年5月11日に進水するわけですが、すぐには任務は与えられず5年間ほども係留されたままでした。ただ1820年7月にジョージ4世の戴冠式の時のテームズ川での観閲式には川を遡り、初めて全装帆の船として(昔の)ロンドン橋をくぐった船となっています。そのあとはビーグル号は任務につかず、1825年にはドックで改造を受けてブリッグ型からバーク型の帆船となります。簡単に言ってしまえば、2本マストの船から3本マストの船になったわけです。さらに上甲板に変更がほどこされたようです。これは測量船として使うための改造だったようです。

さて、その測量ということですが、時代背景としてこういうことがあります。ナポレオン戦争終了後ウィーン体制のもとで海上の安全がかなり確保されて、パックス・ブリタニカ(英国による平和)といわれた時代、民間海上運輸は飛躍的に増大します。またそれまで英国はあまり南米とは関連が深くなかったのですが、ナポレオン戦争後の真空により英国は南米との取引を少なくとも一時的には多くするようになっていました。英国海軍はこれらの民間海上輸送を守る役割を負い、基本的には南米ひいては世界中どこでも民間船舶からの呼びかけがあれば(たとえば海賊を追い払うなどで)駆けつけられるようにという体制を整えようとします。
[注釈]ダーウィンを乗せたビーグル号の航海の時代的・歴史的背景というのはここに書いたものだけでなくもっと複数のそしてより広く長い観点から見ておく必要があると思いますが、それは後の機会に回す事にします。
ところが、英国海軍の役割としてそのような海賊の危険や奴隷貿易を防ぐ[基本的に1807年以降]ということだけではなく、民間船舶の安全航行のためにもそれまで不正確だった世界の海図を正確なものにあらためることが必須であるとの認識を、海軍は持つようになります。ここに英国海軍による測量船の派遣という要請がでてくるわけです。その一環としてビーグル号におよびがかかるわけですね。
比較的大掛かりな改造が行われたようで、1825年9月25日から翌年5月26日までかかっているようです。マストが3本の船になった以外に、船尾楼甲板下に船室(poop cabin)が増設され、船首楼もとりつけられたようですが、設計図が残っていないのでそれ以外の詳しいことが分からないようです。船尾楼甲板下に船室というのは海図を書くのに有利な大きなテーブルを据え付けられる利点があったようです。ビーグル号の1831年から1836年までの航海でダーウィンは(さらに改造した後の)船尾楼甲板下の船室にいたわけです。

さて、1825年9月に命令が発せられて、2隻の船を南米大陸南海岸測量のために準備することになります。2隻の船とはビーグル号とキング艦長の乗るアドヴェンチュア号です。(注:このアドヴェンチュア号というのは後にフィッツロイ艦長がフォークランドで購入しバルパライソで売却した同じ名前の船とは関係ありません。)
ビーグル号の艦長としてはプリングル・ストークスという海尉艦長(Commander)が任命され、ビーグル号は上述の改造を受け、1826年5月22日に第1回目の測量航海に出発します。この航海の時はビーグル号は大きい横揺れをしやすかったようです。この航海ではマゼラン海峡で大へんな苦労をしたようです。最終的にはストークス艦長は自殺してしまいます。ビーグル号はいったんモンテビデオに行き、旗艦ガンジス号のロバート・オットウェイ卿の指示を受け、当時ガンジス号に乗っていた当時海軍での階級が海尉艦長であったロバート・フィッツロイ、当時23歳、をビーグル号の艦長に抜擢します。色々ありますが、とにかくビーグル号は第1回目の航海を1830年の10月14日に終え、1831年春遅くにはその航海についてのフィッツロイ艦長の責務は終了します。
直後はそもそも2回目の航海があるかどうかわからなかったのですが、結局またビーグル号が測量航海にでることになり、さらに改造をしなければなりませんでした。建造したのとは違うデヴォンポート(プリマス)のドックで長い時間をかけて改造が行われたようです。この改造にはフィッツロイ艦長の監督がありました。彼は多くのアイデアを持っていたようです。建造費用の97%の費用で(!)、解体と再建という改造が行われました。上甲板は船尾で8インチ(20.32cm)、船首で12インチ(30.5cm)高くされます。これで船として良くなるばかりでなく、下甲板の部屋での頭のつかえがなくなりそうだというわけです。舷墻を比例しては高くしませんでした。"それで甲板は乾きやすいだろう"とフィツロイ艦長は言います。船尾とそこにある部屋はこのとき完全に取り替えられています。舵やストーブなども当時の新型のものにしたようです。時化のときでも火が消えることがなく、温かいものが食べられるというわけです。避雷針も取り付けてありました。この時は士官には個室(個人用区画というべきかも知れませんが)がわりあてられたようです。画家(Conrad Martens)も途中から同行しましたが、同じように個室(区画わりあて)があったようですが、後に南米のバルパライソで測量の補助船(フォークランドで購入したアドヴェンチュア号)を売却せざるを得なくなった時、そちらの士官をビーグル号に移したために画家用の部屋がとれなくなり、彼はビーグル号を降りて別の船でタヒチに行ったようです。また、ダーウィンのいた船尾楼甲板下の船室というのは船尾から若干突き出た形になっていて船の揺れがそこで増幅されるので、船酔いしやすいダーウィンにとってはつらいものだったのではないかと思います。

さて、ダーウィンの乗った2回目の測量航海(1831-1836)の後、ウーリッジのドックでの修繕の後1837年の6月に蒸気船のタグボートでテームズ川に浮かんだビーグル号はプリムス港から1837年7月5日、ヴィクトリア女王即位直後にそのニュースを携えて、英国にとって重要になりつつあったオーストラリアの測量にむけ、今度はウィッカム艦長(病気のため後にストークスがかわりますが)のもとで3回目の航海にでかけ、1843年9月30日に6年におよぶ航海を終えます。

その後ビーグル号はもう大きな航海には出ることはなく、エセックスの海岸で錨をおろしたまま沿岸警備隊の"ビーグル監視船"となって密輸などの監視所としての任務に当たります。もうその段階ではふたたび帆走することは想定されていなかったのでマストは外されていたと言います。1859年には形式上の所属の変更に伴い名前がHMS BeagleからW.V.7と変えられてしまいます。その後密輸も少なくなり、1870年にW.V.7はいらなくなったということで、5月13日、マレイ・アンド・トレイナーというおそらくスクラップ会社に525ポンドで売られます。その後のことはまったく知られていなかったといいます。