天下三肩衝と呼ばれる唐物茶入があり、

これには、

初花

新田肩衝(にった かたつき)

楢柴肩衝(ならしば かたつき)

 

このうち新田肩衝は、漢作唐物で

古来「大名物」として名高い茶入で、

水戸徳川家伝来、現在徳川ミュージアム所蔵

その銘の由来ははっきりしないが、

新田義貞が所持ていたとの語り伝えもあるが

眉唾の可能性が大

 

伝来としては、村田珠光が所持していたものが

信長の道具狩りにより召し上げられて、

本能寺の変後、

大友宗麟を経て豊臣秀吉の所持となり、

 

大坂城落城後、徳川家康の命を受け

塗師の藤重藤元・藤厳父子が

被災した新田の欠片を探し出し、漆で継ぎ

修復して家康に献上、家康は水戸徳川家の祖

徳川頼房に与え、以後水戸徳川家に伝わった。

 

写真で見る限り、これは、

どうみても名品というには・・・と思うのは、当然

 

当初は海松色(みるいろ)の釉薬が

掛かっていたとされているが、

大坂の陣で被災して、今日の光沢のある

黒褐色となった

海松色(みるいろ)は、やや緑がかった

土色(つちいろ)といったら、分かりやすい。

 

ただ、漆による修復では、海松色の再現が

出来なかったのかもしれない。

藤重氏による修復も、それはそれなりだったのかも

 

実は「付藻茄子」の修復にあたっても、

元通りというわけではなかった。

というのは、

「付藻茄子」には型紙が残っていて

それをみると、現在の「尻膨」のように

肩から胴にかけて滑らかに膨らむ形ではなく、

むしろ「大海」と「壺」の中間くらいの

真ん中が膨らんだ形だったようで、

 

藤重氏は、「付藻茄子」の修復にあたって

意図的に破片を組合わせて、「茄子」形に

寄せて修復しているのである。

考えてみると、この形になって、

かえって「茄子」茶入として

見栄えがするようになったといえる。

 

家康という人が分らないのは、

なぜ見栄えのする「付藻茄子」や

「松本茄子」を藤重親子に下賜して、

修復として出来の良くない「新田肩衝」を、

子の徳川頼房に与えたのか?

家康は、茶器など使えれば、本当にどうでも

良かったのかな。

 

(写真はネットより借用)