唐物茶入大名物とされている

名品の来歴をみると、東山御物

されているものが多くて

東山御物と聞けば、

名品なんだなと思ってしまう。

 

東山御物には、以前から

興味はあったが、どうも

はっきりしたことが分からない。

この前、

三井記念美術館に行ったら

「東山御物の美

足利将軍家の至宝」という図録が

あったので、買ってみた。

これをみると、

東山御物の多くは、中国(明)から

伝来した絵画が中心で、

実は茶道具はそんなに多くない。

 

この話を書きたくなった

理由が二つあって、

その一つが、東山御物は

誰が蒐集したものか?である。

 

東山御物っていうと、

足利義政が頭に浮かんでしまう。

しかし、

室町時代に明(中国)との貿易

(勘合貿易)を始めたのは、

三代将軍の足利義満(北山殿)

 

したがって、足利家では、

義満の時代から

美術品の蒐集も始まっていて、

東山御物は、実際には、

義満以来の歴代将軍家が蒐集した

美術品で、義政の蒐集したものばかり

ではないということになる。

 

もう一つが、歴史的にみると

足利将軍家の蒐集した美術品が

どうして「東山御物」などと

呼ばれたのかである。

 

昔は、武将などを呼ぶときには

氏、諱(いみな、名前)ではなく、

官職や所領地・本家のある

場所の名前で呼んでいた。

 

源氏の一門である足利氏も

足利に本領があったので、

「足利殿」と呼ばれていたが、

京都室町に幕府を開いてからは

「室町殿」と呼ばれた。

 

足利義政は、京都の東山に邸宅

(慈照寺銀閣)があったことから、

「東山殿」と呼ばれていた

 

「東山御物」という言葉は、

東山殿(義政)が所持していた

という意味合いで、

そう呼ばれたとされている。

 

しかし、

これは表向きの説明で、

 

これを他の茶道具と区別して

あえて「東山御物」という

伝来を付けたのかといえば、

 

その茶道具が、

明との勘合貿易でもたらされた

舶来品であり、しかも

足利将軍家、とくに足利義政の

美意識に叶う名品であることを

意味し、

 

そのことにより、

その道具の格式、価値を

上げるためにほかならない。

 

考えてみれば分かるが、

東山御物が足利家の蔵にある限り、

それをあえて東山御物などと

呼ぶ必要もなかった。

 

実際「東山御物」という言葉が

書きものに出てくるのは、

戦国も後期になってからで、

義政の同時代ではなかった。

 

要するに、「東山御物」は、

足利家が功の有る者に下賜したか

戦国期に室町幕府の衰退により

処分されるなどして、

将軍家の手を離れたからこそ、

東山御物という差別化が

必要とされたということ

 

したがって皮肉にも、

「東山御物」は、東山から

散逸して初めて、爾後に

そう呼ばれるようになった。

 

そう考えると、

誠に当たり前のことなのだが、

何とも歴史的な皮肉のように

感じられてならない。