茶道実用手帳(宮帯出版社)で、

かつて6月の茶碗として、挙げられて

今は外されてしまったのは

雨漏手、斗々屋、熊川、青井戸

三島檜垣、瀬戸唐津、安南絞手

 

このうち「斗々屋ととや」って、

その書き方は

斗々屋・魚屋・魚々屋などがあって

定まっていない。

 

歴史的にも、いつ頃から

「ととや茶碗」なる呼び名が

定着したかも分かっていない。

 

比較的はっきりしているのは、

本手利休斗々屋茶碗で、

これは国宝とされている。

これは奇麗さびの小堀遠州

利休ととや茶碗を所持していて

遠州蔵帳」の茶碗の部の筆頭

とされていた

 

小堀家極秘の口伝によれば、

本手利休斗々屋茶碗は、

紹鴎、利休を経て、その後

大阪陣の頃には織部の所持に

なっていたが、大阪落城の前夜、

織部は遠州の陣所を訪ねて、

自分の形見として長く秘蔵して

ほしいと、この茶碗を袋ごと

贈った由緒があるとされてる。

 

この茶碗は、

現在藤田美術館の所蔵なので、

同美術館展の図録の解説を

みてみると、話が違っていて

これによれば、

織部は秀吉の朝鮮出兵に際して

この茶碗を質に入れ、支度金を

用意したが、弟子である遠州が

これを受け出して、織部が帰国

したときに、これで織部を

もてなしたとする逸話が記載

されている。

 

この解説が本当だとすると、

遠州が織部に代わって、

質から受け出したとしても、

織部が戦から帰ってきたなら、

織部に返すのが普通で、

逆に

織部も、これだけの名品なら

弟子の遠州から取り戻すのは

簡単だったはずで、少し話が

おかしいように思う。

 

ただ、小堀家の伝承にしても、

師匠である織部の立場を考えて、

多少話をお化粧直ししていても

おかしくないとも考えられるが

実は、この口伝の伝承もおかしい

 

というのは、

織部は、大阪陣に際して

自分の京屋敷の茶室「燕庵」を

義弟にあたる藪内剣仲

紹智(じょうち)に譲っている

 

とすると

織部は、大阪陣に際して

茶室と茶碗を分けて与えた

ことになってしまって、

それって、どうして?って

思ってしまう。

 

それ程大事な茶碗を渡すなら

立派な茶人であった義弟の方に

渡すのが普通でしょう。

その方が返してもらいたいときは

簡単に返してもらえそうだし・・・

 

むしろ織部は、弟子の遠州に

この茶碗を預けて、戦支度金を

準備(借りた?)したというのが

本当なんじゃないかな

(写真は「藤田美術館展」

(奈良国立博物館)より借用)