大河ドラマ「光る君へ」も大分

ストーリーが佳境に入ってきて、

第18話「岐路」では、

藤原道長の兄で、ときの関白道隆が

亡くなって、弟の道兼が関白となるが、

流行り病で急死して七日関白となった

後の政争が描かれていた。

 

兼家の長男で関白道隆の子である

伊周(これちか)と

三男の道長との争いになった。

 

当時伊周は、内大臣にまで昇進しており、

道長は格下の権大納言に過ぎない。

 

それを、時の一条天皇の母で、

吉田羊が演じる姉詮子(あきこ)が、

天皇に向かって

「道長を関白に」といって泣いて

訴えたというのは、どうも本当に

あったことのようで、道長は

女性に支えられた人生といっていい。

 

結婚にしても、道長の正妻は、

左大臣の源雅信といって格上の方の

娘で、倫子(ともこ、黒木華)

雅信は、倫子を天皇に入内させようと

考えていたところ、道長との婚姻の話となり、

雅信は本来反対だった

 

大河ドラマでも、雅信の妻(石野真子)が、

事前に文のやり取りもなく突然訪ねた道長に

右大臣の三男であっても、道長の方が

出世の可能性があると考えて、

「上げてお仕舞い」といって、屋敷に

上げさせ、二人は結ばれる。

 

道長は、

御堂関白」(みどう)といわれたが

それは雅信の死後、雅信の土御門の屋敷を

引き継いだからで、これは光源氏が

六条の屋敷を六条御息所から引き継いだのと

よく似ている話

 

その倫子(ともこ、黒木華)との間に

生まれた子が彰子で、

後に一条天皇に入内して中宮となり、

後一条天皇を生んだことから、道長は

天皇の外戚の地位を得ることになる。

 

その際、

先に入内していた兄の道隆の娘定子を

愛していた一条天皇が、道長の娘である

彰子のところに通うように、

彰子の周りに知的なサロンをつくり

当時有名だった赤染衛門などの歌人

源氏物語を書き始めていた紫式部

などを出仕させ、一条天皇の渡りをまつ

体制を整えた。

 

さらに、次代の三条天皇には

次女の妍子を中宮とし、

後一条天皇には三女の威子を

入れて中宮とし、

「一家立三后」(一家三后)といわれた。

 

威子の立后の日に道長の邸宅で諸公卿を

集めて祝宴が開かれ、道長は即興の歌

この世をば わが世とぞ思ふ 

望月の 虧(かけ)たることも 

なしと思へば

と詠んだとされている。

 

この世は 自分(道長)のために

あるようなものだ 望月(満月)のように 

何も足りないものはない

というふうに解されている。

 

これは道長の日記「御堂関白記」には

記載がなく、

道長に批判的な貴族(実資)の日記に

書き残され、後世に伝えられたもので、

道長の書いたものではないことは

よく知られている。

 

甚だ傲慢ともとれる和歌で、

これが後に藤原摂関政治の批判の

種にもなった有名な和歌だが、

 

この詩については「この夜をば」と

解釈する見解もあって、

この夜をば わが夜とぞ思ふ 

望月の 虧(かけ)たることも 

なしと思へば

 

今夜は、祝いの私のために

あるようなものだ、満月が欠けた

ところのないように、この立后に

満足している

 

こう読むと、娘の立后を喜ぶ

素直な父親の姿が思い浮かぶ。

何でもない、微笑ましい和歌とも

理解できる。

 

私は、実はその和歌は表と裏の

両方の意味があって詠ったものと

推測している。

 

平安の世は、言葉遊びの時代で

かけ言葉など多彩なテクニックが

使われている。

表の意味としては、何気ない言葉が

裏の意味を持っていることなど

ごく普通なのだ。

 

平家物語だったか、

専横を極めた平家を打とうとして

僧、貴族らが鹿ケ谷(京都の北)に集まり、

お酒をいれた兆子が倒れたのをみて

瓶子(平氏)が倒れた

といって、喜ぶというシーンがあった。

 

これなど同じ言葉遊び

今日は、私が大好きな黄瀬戸きせと)

黄瀬戸茶碗【龍麟】