この前のお稽古で、茶杓の銘を

「苫屋」と言ってしまったことから、

そういえば、秋の和歌は沢山ある

ことを思い出した。

 

そんな中で、お茶のお稽古で

これは絶対に覚えておいた方がいい

和歌に秋の夕暮れを詠う

三夕」(さんせき)がある。

 

どうしてそうなのかといえば、

お茶で言われる季語や茶杓の銘で

こういう和歌の一節をひいている

ものがかなりあるからである。

 

まずは、

昨日も書いた藤原定家

見渡せば 

花も紅葉もなかりけり

浦の苫屋の 秋の夕暮れ

 

見渡すと、花(桜)も紅葉も

ないけれども 入り江にある

苫で葺ふいた粗末な小屋にも

秋の夕暮れがあり、趣がある

くらいの意味

 

なぜこの和歌が有名かといえば、

武野紹鴎(たけの じょうおう)が

この定家の和歌をひいて、

侘び茶の心を伝えたから。

 

初心者の頃に勉強したことを

思い出すと、侘び茶は、

村田珠光から始まったとされていて、

珠光は、侘び茶の心について、

月も雲間のなきは いやにて候

といって、

満月をめでるのが当たり前と

思われていたのに対し、

月に雲がかかっている方がよい

と言っていて、

 

珠光の次の世代の

武野紹鴎は、この定家の

和歌をひいて、

花も紅葉もないような粗末な造りの

苫屋にも秋の夕暮れになれば、

侘びの趣があるといった。

 

ここには目に見える花や紅葉の

美しさだけを愛でるのではなく

こころで感じるものを大切に

しようとするもので、

 

後の利休が、侘び茶の心

について、藤原家隆の

花のみを 待つらむ人に

山里の 雪間の草の

春をみせばや」

という和歌を

引いていることからすると、

 

武野紹鴎も、定家の和歌に

目の前になくとも、

秋の苫屋に花も紅葉を

心で感じることがいいと

言っているのかもしれない。

「物はなくとも、心で見る」と

でもいうのかな。

 

今日は名品とはいえないが、

釉薬の綺麗な茶入

亀井楽山造 高取茶入