鬱病になって抗鬱剤の投与を受け、半年ほど経った頃、躁転しました。その時の記憶は鮮明で、躁転の後、鬱にならなければ、一生躁でいたいと思ったほどの勢いでした。双極性障害という病気では、躁と鬱とが交互にやってきて、鬱になると非常に辛いだけでなく、躁の時も金銭にルーズになったり、性行動で逸脱するなど、周囲の人々を巻き込んで大騒ぎになるので、躁転することは決して幸せなことではないのですが、鬱で苦しんでいるときは、とにもかくにも今の苦しみから逃れたくて、躁になることを切に望むものです。
私が躁転したときは、とにかく早朝から深夜までスケジュールをギッシリと入れ、それをこなすばかりか、夜には女性を次々と口説いていくというもの。躁転を心配する家族には、破滅してもいいから今の状態が続いて欲しい、と言い放つなど、自らの体力を超えた行動の数々で、ヘトヘトになりながらも心身は激しく動き回ってるというものでした。いま振り返れば、そのまま躁の状態が続いていたら、セクハラで訴えられ、針が振り切れたら想像もできない鬱地獄に転落しただろうと思います。しかし、そこからが問題なのです。
医者に行き、性的逸脱の行動などについて症状を訴えたところ、躁を抑える薬を出しましょうと言って処方された薬を飲んだところ、一気に頭に鉛の王冠を乗せたような鬱地獄にはまりこみ、それはそれは辛い日々を送ったのです。ソフトランディングではなく、文字通りのハードランディングで、その後の15年にわたる鬱との闘いは、そこが原点のような気がします。もしそこで、うまく平衡をとってくれていたら、鬱に落ち込むことなく過ごせたのではないか、いまこのようにブログを書くような事態そのものが生じなかったのではないか、という思いを強くしています。
つまりは、その医師によって、鬱が作られたのではないか、鬱の定常状態はそこから生じたのではないか、という疑問を払拭できないのです。
もちろん、躁転そのものは良くありません。それは当然のことです。しかし、躁も鬱も医師が作り出しているのではないかーーーそんな思いが近頃、私の頭を支配しています。病気そのものを医師が作り出す。なんだか笑うに笑えないブラックジョークが精神科臨床の実態なのではないか、という思考から逃れられない今日この頃です。