ナカガワのライフログ -3ページ目
失うことが怖くなくなった時、人生を変える覚悟が決まった

普通は、守るものが増えるほどリスクは取れなくなると思う。

結婚する。

子どもが生まれる。

会社もある。

ある程度のお金もある。

そうなったら普通は、

「今あるものを守ろう」

になる。

昔の俺もそう思っていた。

でも実際は逆だった。

俺の場合、守るものが増えたタイミングで、人生で一番大きなリスクを取った。

---

理由は単純な自信ではなかった。

「俺なら絶対成功できる」

そんな主人公みたいな感覚でもない。

もっと泥臭かった。

このまま変わらないことの方が怖かった。

---

子どもが生まれてから、生活は大きく変わった。

自由だった時間はなくなった。

夫婦関係も悪くなった。

昔みたいに、

「次は何しよう」

「どうやって伸ばそう」

という未来へのワクワクも減っていた。

この話は前にも書いたから詳しくは繰り返さない。

ただ、その状態が続く中で、俺の中のリスクに対する感覚が変わっていった。

---

昔だったら怖かったと思う。

今まで貯めたお金がなくなる。

積み上げたものを失う。

普通に考えたら嫌に決まっている。

でも当時は違った。

失うこと自体が、そこまで怖くなかった。

むしろ、

「今の生活が終わるなら、それも一つの変化かもしれない」

くらいに思っていた。

---

もちろん、今振り返ればかなり追い込まれていたと思う。

妻もしんどかった。

俺もしんどかった。

家庭の空気も悪かった。

何回も、

「この先どうなるんやろ」

と思った。

---

だからといって、全部投げ出したかったわけではない。

ここは誤解されたくないところ。

失敗したかったわけじゃない。

家族を失いたかったわけじゃない。

むしろ逆。

成功して変えるしかない。

その気持ちが強かった。

---

全財産を失ってもいい。

でも適当に失うつもりはない。

この二つは全然違う。

当時の俺の感覚はそんな感じだった。

---

だから株に大きく資金を入れた時も、ギャンブルしている感覚ではなかった。

もちろんリスクはあった。

絶対勝てる投資なんてない。

でも、自分なりの勝算はあった。

企業を調べる。

市場を見る。

成長性を見る。

今後どうなるか考える。

今まで事業をやってきた経験も使った。

---

それに、完全に後がない勝負でもなかった。

仕事は続いていた。

収入もあった。

もし資産を失っても、また稼げる。

そう思っていた。

20代から自分で稼いできた経験があったから、そこへの自信はあった。

---

だから外から見ると、

「よくそんなリスク取れるな」

だったかもしれない。

でも俺の中では違った。

リスクは2種類あった。

お金を失うリスク。

人生が変わらないリスク。

当時の俺には、後者の方が大きかった。

---

人は余裕があるから挑戦するとは限らないと思う。

もちろん、余裕があるから挑戦できる人もいる。

でも俺の場合は違った。

追い詰められていたから動けた部分がある。

今が十分幸せだったら、

「この生活を壊したくない」

と思っていたかもしれない。

---

皮肉な話。

人生が楽しくなくなったから、もう一度人生を変えようと思えた。

満足していたら、動けなかった。

---

後から見ると、成功した投資。

でも当時の中身はそんな綺麗なものじゃなかった。

未来への期待。

今への不満。

家族への責任。

自由への執着。

全部混ざっていた。

---

たぶん人生を変える決断って、そんな綺麗な理由だけじゃない。

夢だけでもない。

希望だけでもない。

時には、

「このままは嫌だ」

という気持ちの方が、人を強く動かす。

俺にとって株への挑戦は、まさにそういうものだった。

子どもが生まれて、俺の人生は一度つまらなくなった

2026年6月5日。

なんで俺は会社を売って、海外まで行こうとしてるんやろう。

そんなことを改めて考えていた。

表向きに言えば、子どもの未来のため。

それは嘘じゃない。

でも、そこだけ切り取ると、なんか綺麗すぎる。

もっと根っこの部分には、

「このままの人生を続けるのがしんどかった」

という気持ちがあった。

これは子どもが嫌いになった話じゃない。

むしろ子どもが生まれたから、人生で一番大事なものに気づいた部分もある。

でも同時に。

子どもが生まれて、俺の人生は一回つまらなくなった。


子どもが生まれる前。

俺と妻は、かなり自由に生きていたと思う。

二人とも自営業。

物販、EC、ネット通販をやっていた。

元々その仕事がきっかけで知り合って、付き合って、結婚した。

二人ともお金持ちになりたかった。

会社を大きくしたかった。

仕事を頑張るのが普通だった。

妻なんか週7で働いていた。

俺はそこまで体力がないから、週1くらいは休んでいたけど、それでも頭の中はずっと仕事だった。

でも嫌々やっていたわけじゃない。

むしろ、おもろかった。

昨日より今日。

今日より明日。

売上が伸びる。

利益が増える。

新しい商品が当たる。

失敗したら改善する。

全部、自分たちの行動が未来につながっている感じがあった。

人生を自分で動かしている感覚があった。


それに、自営業の自由さもあった。

疲れたら休む。

思いついたら旅行に行く。

平日の昼間、人が少ない時に出かける。

居酒屋に行きたくなったら行く。

別に誰かに許可を取る必要もない。

もちろん仕事の責任は全部自分。

失敗したら収入もなくなる。

でも俺にはその方が合っていた。

自由と責任がセットになっている感じ。

それが好きだった。


そこに子どもが生まれた。

もちろん嬉しかった。

でも正直に言うと、俺たち夫婦は昔から

「絶対子どもが欲しい」

というタイプではなかった。

子どもができたら子どものいる人生。

できなかったら夫婦二人の人生。

それでもいいかな、くらいだった。

だから妊娠が分かった時、

「じゃあ子どもありの人生をやっていこう」

と思った。

でも。

実際の子育ては、想像の何十倍も大変だった。


最初に壊れたのは自由だった。

今まで好きなタイミングで動いていた生活が、全部子ども中心になった。

外食に行きたい。

でも赤ちゃん連れて行くのが大変。

疲れたから今日は外で食べよう。

それが簡単にできない。

眠くなる時間。

ご飯の時間。

機嫌。

全部考える必要がある。

結局、自分たちがやりたいことより、

「子どもが崩れない選択」

をする方が楽になる。


平日は子どもを預けて、その間に仕事。

土日は家族サービス。

気づいたら、普通の生活リズムになっていた。

昔なら平日に空いている場所へ行けた。

でも今は土日。

どこへ行っても混んでいる。

駐車場もいっぱい。

ご飯屋さんも並ぶ。

なんでわざわざ一番混んでる時に行かなあかんねん。

昔ならそう思って避けていた生活を、自分がするようになっていた。


家事も一気に増えた。

正直、子どもが生まれる前は、

「専業主婦で時間ないって、なんでそんな忙しいんやろ?」

と思っていた。

大人二人なら家事なんてそんなになかった。

洗濯も2〜3日に1回。

疲れたら外食。

掃除も適度。

普通に回っていた。

でも子どもがいると全然違った。

洗濯が毎日。

時には1日2回。

服は小さいのに、なぜか量が増える。

タオル。

食べこぼし。

汚れた服。

布団。

終わらない。

片付けても片付けても散らかる。

ご飯を作る。

食べさせる。

片付ける。

また次の日。

ずっと同じ。


これが俺にはきつかった。

仕事なら違った。

今日頑張れば何かが積み上がる。

売上になる。

経験になる。

未来につながる。

でも家事は違う。

洗濯物を完璧に片付けても、次の日また出てくる。

皿を洗っても、次の日また汚れる。

部屋を片付けても、また散らかる。

成果が残らない。

自分が前に進んでいる感じがなかった。


もちろん、子育てが意味ないと言いたいわけじゃない。

子どもは成長している。

本当は積み上がっている。

でも、その時の俺には感じられなかった。

毎日ただ維持している感覚だった。


さらに一人目の子育ては難しかった。

発達の特性もあって、対応に悩むことも多かった。

どう接したらいいのか。

何が正しいのか。

調べて、考えて、試して。

ずっと気を張っていた。

子どもが嫌いなんじゃない。

ちゃんと育ってほしいから考えていた。

でも、それが楽しいかと言われると違った。


そして妻もしんどくなっていった。

一人目は俺にすごく懐いた。

逆に妻にはあまり懐かなかった。

普通なら母親に行きそうなのに、俺の方に来ることが多かった。

それで妻はどんどん追い込まれていった。

俺は家事や育児を増やした。

妻を休ませようとした。

でも、あとから考えると問題はそこだけじゃなかった。

家事を何時間減らすとか。

休憩時間を作るとか。

もちろん大事。

でも根っこは、

俺も妻も、自分の人生を失ったことが苦しかったんだと思う。


夫婦喧嘩も増えた。

何回も離婚を考えた。

外から見たら、

会社がある。

家族がいる。

子どもがいる。

幸せそうに見えたかもしれない。

でも本人たちは限界だった。


この時期のことは、あまり綺麗な話にはできない。

「子どもが生まれて人生最高になりました」

とは言えない。

もちろん、そう感じる人もいると思う。

でも俺たちは違った。

子どもは大切。

でも子育て生活は苦しかった。

この二つは同時に存在していた。


そして今思う。

もしこの時、まだ昔みたいに人生が最高におもろかったら。

自由で。

仕事も伸びて。

毎日ワクワクしていたら。

たぶん俺は次の挑戦なんかしていなかった。

今ある生活を守ろうとしていたと思う。

人生が一度つまらなくなったから。

このままじゃ嫌だと思ったから。

もう一回変えたいと思った。

この苦しかった時期が、後の大きな判断につながっていくことになる。


2026年6月4日。

最近、AIとずっと話してる。

検索代わりとか、ちょっとした質問だけじゃない。

投資のこと。
マレーシア移住のこと。
子育てのこと。
アプリ開発のこと。
自分の考えの整理。
これからの人生をどうするか。

気づいたら、人間よりAIに話してる時間の方が長いんちゃうかと思った。

前からなんとなく、

「将来、人間は人間と喋らずにAIとばかり喋るようになるんちゃうか」

とは思ってた。

でも最近、それが未来予測というより、もう自分の生活で始まってる感じがした。

今回考えたのは、AIが一番快適な話し相手になった時、人間と会う価値はどこに残るのか、という話。

---

きっかけは、AIと話すのがあまりにも楽だったこと

AIと話していて思うのは、頭がいいとか便利とか、それだけじゃない。

人間相手の面倒くささがない。

これがかなり大きい。

人に相談する時って、意外と気を遣う。

今この話していいかな。
相手は興味あるかな。
同じ話を何回もしてないかな。
まだ自分でもまとまってない話をして、変に思われへんかな。

そういう細かい摩擦がある。

でもAIはそこがない。

深夜にいきなり聞いてもいい。
同じテーマを何回掘ってもいい。
昨日と言ってることが変わってもいい。
まだ形になってない不安をそのまま出してもいい。

しかも過去の流れを踏まえて返してくる。

これは快適すぎる。

人間が嫌いとかではない。

ただ、AIと話すことに慣れると、人間と話す時の摩擦が前より目立つようになる気がした。

---

人間関係の面倒くささが、不快になるかもしれない

今までは、人間関係に摩擦があるのは当たり前だった。

誤解される。
説明に時間がかかる。
相手の機嫌がある。
価値観が違う。
タイミングが合わない。

それでも人間同士で話すしかなかった。

でもAIが常に横にいて、自分の背景も考え方も覚えてくれるようになったら、話は変わる。

人間相手の面倒くささに、みんな耐えられなくなるんじゃないか。

これはちょっと怖い。

便利になるというより、人間に対する許容範囲が狭くなる感じ。

AIなら一瞬で分かってくれるのに、なんで人間にはここまで説明しないとあかんのやろう。

そう感じる人は増える気がする。

なんでやねん。

でも、たぶんそうなる。

---

いきなり人と会わずに、AI同士が先に会う未来

その流れで考えたのが、人格AI同士の交流だった。

将来、自分の考え方や価値観を反映したAIができたら、そのAI同士が先に話すようになるかもしれない。

俺のAIは、俺が何に興味を持っているかを知っている。

AI。
海外移住。
投資。
子育て。
アプリ開発。
人生ログ。
未来の格差。
子供世代の生き方。

相手のAIも、その人の考え方や判断基準を知っている。

そのAI同士が話して、

「この2人は会う価値ありそう」

となったら、本人同士が会う。

逆に合わなそうなら、最初から会わない。

今のプロフィールより、そっちの方が人間性が出る気がする。

年齢、肩書き、収入、趣味タグ。

それも情報ではある。

でも、ほんまにその人を知るなら、

何に悩んだか。
どこで迷ったか。
何を選んで、何を捨てたか。
何を怖がって、それでもなぜ動いたか。

そっちの方が大事な気がする。

---

憧れの人に会う意味は、ライブに近くなる

AIが発達したら、知識を持ってる人に会う価値は下がるかもしれない。

その人の本や発言や動画をAIに学習させたら、

「この人ならどう考えるか」

はかなり再現できるようになると思う。

じゃあ本物に会う意味は何か。

ここで思ったのが、アーティストのライブだった。

音楽はスマホで聴ける。

音源だけなら家でいい。
歌詞の意味もAIに聞けばいい。
何回でも再生できる。

でも人はライブに行く。

それは、音だけを聞きたいんじゃなくて、その人がそこにいることを感じたいからだと思う。

その人がその時代を生きて、何かを感じて、その表現にたどり着いた。

そこに触れたい。

未来の人間関係も、少しそれに近くなる気がする。

情報をもらうために会うんじゃない。

その人の生き方や空気感を感じるために会う。

---

逆に、見た目や身体性に振れる可能性もある

一方で、全部が考え方や生き方に向かうとも限らない。

AIが会話や知識を満たしてしまうと、人間にはもっと本能的な価値を求める可能性もある。

見た目。
声。
雰囲気。
カリスマ性。
その場にいる感じ。
身体性。

そこはAIでは完全には置き換えにくい。

だから未来の人間の価値は、二極化するかもしれない。

考え方や人生に触れたい人。

存在そのものに惹かれる人。

逆に、中途半端に知識を話すだけの人は、AIと競合してしまうかもしれない。

これは自分にも刺さる。

自分が何者なのかを、肩書きや正論だけで示すのはだんだん難しくなる。

その人が何を経験して、どう考えてきたか。

そこが見られる時代になる気がする。

---

人生ログは、成功者だけのものなのか

ここで少し引っかかった。

今こうやって人生ログを残しているけど、結局こういう記録に価値が出るのは、圧倒的に成功した人だけなんちゃうか。

それはたぶんある。

世界を変えた人の初期ログなら、みんな読みたい。

「あの人は成功する前に何を考えていたのか」

それは強い。

でも、それだけでもない気がした。

人は遠すぎる成功者より、自分に近い人の記録に救われることもある。

同じ年代。
同じように子供がいる。
同じように将来が不安。
同じようにAI時代に賭けようとしている。
同じように家族を守りながら、でも普通の道から外れようとしている。

そういう人の途中経過の方が、刺さる人もいる。

成功後に整えた綺麗な物語じゃなくて、

「この時点では普通に怖がってたんや」

という記録。

そっちの方が、場合によっては価値がある。

---

AI時代ほど、自己開示が大事になるのかもしれない

AIは正しい文章を書ける。

AIは情報を整理できる。

AIはそれっぽい意見も作れる。

そうなると、ただ綺麗に書かれた文章には価値が出にくくなる。

残るのは、その人しか持っていない経験だと思う。

何を怖がったか。
なぜその判断をしたか。
どこで迷ったか。
何を守ろうとしたか。
何を捨てる覚悟をしたか。

そういう部分は、あとから綺麗に作ろうとすると嘘っぽくなる。

だからこそ、途中のログを残す意味があるのかもしれない。

俺はまだ成功者でもないし、未来がどうなるかも分からない。

ただ、2026年6月時点では、AIと話す時間が明らかに増えている。

そしてその結果、人間と会う意味について考えるようになった。

AIが便利になるほど、人間の価値は消えるんじゃなくて、もっと濃い部分に寄っていくのかもしれない。

人と会うなら、その人の情報が欲しいんじゃない。

その人がどう生きてきたのかを感じたい。

たぶん、これから残すべきなのは正解じゃなくて、そこに至るまでの迷いなんやと思う。

おかんが子宮の手術をするらしいので、もしかしたらこれが最後かもしれないと思って実家に帰った。

しゅんちゃんが親父に懐いて、楽しそうだった。

名張に帰ってきたけど昔の自分が別の世界の他人のような気分だった。

あの頃感じていたことや働いていたことが何も共感できない。

もう別の世界線に移ってしまったんだろう。

大阪では久しぶりにフセインさんに会った。

元気そうで良かった。


ローズモントは来年中に完成厳しそう。

賃貸でドバイに行くしかないのかなあ