自由の先にはもう何もない、フリージャズが発生した時点で音楽は限界を迎えてしまった。
「何にもないものの先に、何にもないじゃないか。」
と言って両手を広げて見せた父は、マイルスデイビスとジョン・コルトレーンが好きだった。
阿部薫については、何も知らないと言っていた。
入口のドアのカーテンが掛かっていて、クローズの表札が下りていて、でもスタンドにはまだ明かりが灯っている、これが、
「おいで、入っても良いよ。」
の合図なのだった。私は今日も仕事終わりに(午後11時半)マスターのお店に一日の終わりの一杯を求める。
「いつもの。」
「うちは定食屋じゃないですがね。」
と言いながらも、マスターは、お帰りなさい、と言って微笑んでくれた、私は痛む足や肩に食い込む鞄を投げ出して、はだしのままカウンターにもたれに行くのだった。
ワイン居酒屋である。
銘柄は覚えないことにしている。マスターは仕入れにこだわりを持っているし、その年の出来の良しあしによって、いつも同じワインが置いてあるとは限らない。だから私はワインの、シャトーとか銘柄を覚えない。しいて言うとメルローという品種のブドウを使ったものが好きかな。マリアージュなんでものを気にするほど、私は酒の品質にはこだわらない。マスターの意向とは反するけど、マスターはそんな私を特に攻めない。私たちは仲良しだ。
私は初めての呑み屋でもビビらずに一人で入ってしまう。マスターのお店も、なんとなくワインでも飲みたいなあと思ってふらりと入ってみたら、
思いがけず父の好きだったモダンジャズがたくさん掛かっているのですっかり気に入ったのだ。
私は良く、閉店のぎりぎりまで飲んでいた。牡蠣の燻製やあぶりベーコンなんてものを相手にグラスの白ワインをゆっくりゆっくり飲むのである。
ラウンドアバウトミッドナイト。
父との思いでが蘇ってきて目の端が濡れる。
「はい、いつもの。」
と、マスターは、茹でたスパゲティをガーリックバターと醤油で炒めただけのいわば「素スパゲティ」を作ってくれて、棚から取り出したグラスにメルローの何かを継いでくれた。
「あれ、出しますか。」
と笑うオーナーは穏やかだ。
私だって常識が無いわけじゃない。閉店時間を過ぎてまで居座る、入り込む客歓迎されるわけがないと思っている。でも。
「お願いします。」
と私は熱いスパゲティを食べながらマスターに言った。頷いて、彼はカウンター奥の物入れの中からレコードを一枚選んできてターンテーブルにセットする。オーディオは大したものじゃない、音が出ればいい、というほどのの代物だ。
なんでこんな混乱した音楽が好きなんだろう。と思う。阿部薫は音楽で人を殺そうとした人物だ。というか、音楽でなら人が殺せると思っていた人物だ。その点たがわず、音色は刃物の様で。今にも首の動脈から血が噴き出しそうになる。音楽に、切り裂かれて。
「僕は、いつものこしとかない。フリージャズは一発勝負だから。」
という言葉を残した割には、彼のレコードは今も、それほど多くはないが現存している。
阿部薫って知っている?と聞いたら父は知らないと言っていた。フリージャズの先にはもう何もないのだと言って逝った。
となれば、この混乱した音楽は、それをたどって行けば死に至るカロンの渡し船なのかもしれない。
「阿部薫は音楽で人を殺そうとしたらしいのに、私は、こんな音楽ばかり聞いていて、死にたいのでしょうか。」
私はグラスの足を持ったりしない。酒はだらしなく飲んでこそマナーなのだ。
「でもね、僕は毎晩聴いていますが未だに生きていますよ。何十年とね。」
とマスターは笑った。
「マスターは死にたいですか。」
「はい死にたいですね。」
「でも死ねないですか。」
死を誘う混乱した音楽に自らをさらしていても。私はこってりとした、でもシンプルなスパゲティをゆっくりと食べる。深夜11時の時間もゆっくりと過ぎていく。
「彼は勇敢な人物でした。人殺しを志しながらまずは自分が死んでみせたのですからね。私なんかは、まだその覚悟がないから、こうして店をやっている。」
「お酒、美味しいですよ。」
と私はお代わりを要求した。