長編お話「普遍的なアリス」の21 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

午後からの講義に出て、夕方遅くにうちに帰ったらソウスケが怒っていた。ソウスケはリビングに居ない時は自分の部屋に居る。
 
私はうちに帰ったらまずソウスケを探すので、仕事部屋のドアを小さく開けて、
「ただいま。」
と言ったら
「おかえり。」
と言ったソウスケが怒っていた。感情をあらわにしないソウスケにしては珍しいことだけど、感情をあらわにしないソウスケが怒っているのが分かるのは、本棚の整理をしていたからだ。
 
ソウスケはトラブルに巻き込まれたり、イライラしたり腹が立つことがあると、他にどんな用事があっても必ず本棚に手を入れる。
 
整理する必要なんかなくても、ソウスケは怒ると本棚に手を伸ばすのだった。私がドアから顔だけしか入れなかったのは、床一面、ただでさえ狭いソウスケの仕事部屋の床いっぱいに、本が投げ散らされていたからだった。
 
「コーヒーは?」
私はソウスケ怒っていてもちっともこわくない。私のことで怒るはずがないと、そんなことは絶対にに起きないと分かっている体。ソウスケを信頼しているからだ。だとしたら、一体何に怒っているのだろう?
「いらない。」
とソウスケは答えた。壁に作り付けの本棚から手当たり次第本を抜き取って、床に並べて、時折その中から一冊二冊手に取って、また本棚に戻したり梯子を上がってロフトの上に持って行ったり、まったく意味の無いことをしていた。
そういう、意味のないことをしてソウスケは煮立っている自分の頭をなだめているのだった。
 
「何怒っているの?」
私はドアから顔だけ入れたまま、だってこのままじゃ中に入れないもの、ソウスケに訊いた。怒っているのは分かる。でも、何があって怒っているのかは、さっき帰ってきたところの私には、分からない。
「なんで怒ってるって分かる。」
とソウスケは梯子から降りてきて、今度はベッドに腰掛けてそこにぎっしり積んである本をばらばら捲ってみながら私のことなんて見もせずに言う。
 
「コーヒー。」
「なんだ。」
ソウスケは怒っても声は怒らない。
「コーヒー入れてあげるのに要らないっていうんだから尋常じゃない。」
と私は言った。
「この状態でどうやって飲めと言うんだ。」
「そういう状態まで自分を追い込んでいる姿を見るから、怒ってるのが分かる。」
そう言ったら、ソウスケは持っていた本を後ろに放り出して(あるまじきおこないだ)、
「そうだ。」
と、例の、私を見る時の、キューを握ったハスラーみたいな目で言うのだ。
「腹の立つことはあった。」
そう、言った。
「学校で何か嫌なことでもあったの?」
と言うとソウスケは再び立ち上がって、ともかくもドアの辺りをふさいでいる本を手当たり次第棚に戻し始めた。
ソウスケは怒ると本棚の整理というかむしろ、攪乱、をしている。あらゆる秩序を台無しにする行為。
 
「梓が出て行くと言っている。」
「へえ。」
さもありなん。
「じゃあ出て行けと言った。だが、絶対に出て行かないと言いだした。今自分の部屋に籠って頑張っている。おかげで俺は飯も食っていない。」
驚いだ。
「いつから?」
「昼からだ。」
ソウスケはだんだんと怒りの色調を荒々しく変えていきながら、雑然と本を扱っている。拾い上げて、棚に入れる。
「出て行く。と言った。だから出て行け、と言った。なのに出て行かない。俺はそういうことが一番許せない。」
いつもと変わらない話し方だけど、言葉全身に忌々しさが籠っている。
「もっと分かりやすい女だと思っていたのに。」
私は怒りに震えている兄と、きっと、同じように怒り心頭の義姉を想って、双方のために、深く息を吐いた。