“さむい。
と榮妃は呟いた。一人だった。火の用意のまだ来ない朝方に、榮妃は一人、房の戸口に立って見るともない庭を見ていた。
梅雪殿の名に相応しく時にもない霜が腐れ落葉の上に降りていた。
まだ霜の降る季節でもないのに、まさしく梅に雪だわ、と榮妃は考えていた。考えながら葉も華も何処かへ忘れてきた梅の老樹を眺める。
この茶錆びた葉がすなわち梅であった、
この枯れ鼠の霜がすなわち雪であった、
この朝に榮妃の心を彩ったものであった。
ふいに得た息子はふいに持ち去られていった。
あの赤子は無かったことと思え。
とだけ実父から告げることばが届けられていた。
皇党と太后党との亀裂がいよいよ思わしくないのだそうだ。
普代家の左翼で身辺を固めつつある皇帝に対し太后が廃位の謀略に打って出るとの流言はとうからうわさでも何でもなかったし、
(その準備は着々と進んでいた)
皇党の普代達にとっては今廃位の悶着を起こされるよりは、
皇后に養子を与えて左派の勢力の釘を打とうとしたのである。
世継ぎの母としての地位を固めさせることで、どうにか危うい近郊をとろうとしたのである
正皇后に子がある状態で、太后も皇帝を廃する利点を著しく失った。
榮妃の生んだこどもは太后の進路を閉ざすための布石にされたのであった。
皇后と太后から普代を捲き込んだ政争を沈着させるための代のされたのだった。
榮妃は、一人残された。
さむい。
ともう一度呟いた。この梅が花を着けていたことなどあっただろうか、と榮妃は先程から疑っている。
花も無いままに葉だけ繁らせて、時がくれば腐っておちるのだ。
それだけの樹なのだ。
そう
思って、さむい、もう一度呟いた。”
“そうね、
最初から自分のこどもがという意識もなかったからね。
居なくなったときも悲しくなかったけれど、
居なくなってからなんだかとても寒く感じたわ。
でも居なくなってせいせいしたのは確かなのよ。
皇帝の息子だったんですから。”
直井くんのためにパンを買いに行きながら、私は榮妃と会話していた。
「ふつう皇帝のお嫁さんになった人って子供生もうって必死じゃないの?」
“必死なのは生家なんであってわたしではないわ。
後宮の女なんて全く切り花ですからね。摘まれて活けられて渇れて棄てられて、
それだけよ。
根もなければ実も残さない。清々しいと言えばそういう人生だとわたしは思っていたわ。”
「でも貴方は清々しいどころじゃなかったんでしょう。」
会いたい人と、会えずに死んだんだから。
“ああ、
そんなことはどうでもよいのよ。どうせ初めからそう何度も顔を観たことがあった訳じゃないのだから。
ねえそれよりもあなたは今以上に悪いことが起きればいいと思っているのね。”
「でも起きないんだって言われちゃった。」
“そう。
悪いことは起きないのよ。
その悪いことは、あなたが望んでやまないことなんだから。
わたしの望みが叶わなかったように、あなたの願いも叶うことはないでしょう。
わたしはなんだかそんな気がするのよ。”
「自分が運が無かったからって酷いなあ。」
と、私が言うと、姿のない声のない榮妃は、風のように、ふうっふっ、嗤った。