実家から送られてくる生活費が今後目減りしていくとが濃厚だったので
僕は夏休みの全体をバイトに中てることにして
先生の研究室を訪ねた。
僕の大学は瀬戸内海に面した県の港からは離れた市街地にあるのだが、
最近この付近で大掛かりな発掘調査が行なわれている。
先生は考古学教室所属なので自然地元参加の調査団に加入しているから、僕は雑用を募集している枠に、先生のコネで入れてもらおうという、そういう魂胆なわけだった。
区画整備中に古代の村落跡が発見されることはよくある。
一応歴史的価値を評価するために一通り掘り返した後で、多くはそのまま埋め戻してしまう。
道路の筋を替えるほど観光価値があると自治体が思うなら、
「縄文の丘公園」くらいにはなるかもしれない。
しかし今回の発掘調査はそういうついでみたいなものとは桁違いなのだ。
学会の興味も情熱も、国のよこやりも、野次馬の勝手気ままな書き込みも、
そこいらの住居跡が見つかった時と桁違いなのである。
一つには発見された集落の痕跡が、これまで当該地で例の無いほど大規模なものだったこと、
そして推定時代区分があの「邪馬台国」が繁栄した頃にドンピシャだったのがその大きな理由だった。
「遂に邪馬台国論争決着か!?」
ではないのだけど、
瀬戸内海沿いの大規模な集落というのがけっこう重要なポイントなんである。
邪馬台国は九州にあったのかはたまた畿内にあったのか
江戸時代から続く出口の無い論争なのだけど、九州説にすこしだけアドバンテージが存在する。
只でさえ困難な船での移動だ。畿内からハイリスクを押して大陸を目指すより、九州から直接出航したほうがかなりの部分利便に富む。そういうこと。
しかし瀬戸内海に畿内邪馬台国の拠点が一つあったとしたら、このアドバンテージを覆す根拠となりえるのである。
つまり畿内を出航してからの補給中継地点、あるいは本国の属州として外交事業を受託していたなどの仮説が提案できる。というわけで、この遺跡発掘は話題がないと食っていけない考古学畑の久しぶりに出てきた「当たり」なのだった。
僕は先生に、実家からの仕送りが厳しくなったので、発掘の現場で9月一杯まで働かせてもらえないだろうか、と頼んだ。
仕事はおそらく掘り出した土器などを洗って土を落としたり、作業が進められている様子を写真や動画に記録したり、たまに「ここを掘れ」といわれたら犬みたいに掘り起こすくらいのものだ。
去年のゴールデンウィークにも参加している。
大差はないだろう。
「自宅には、帰らないの?」
先生は手を入れていた作業が一段落したようで、PCモニターの向こうからにこやかに問うた。
僕ははい、とだけ言った。そして
「なにもないところです。」
とつい言ってしまった。先生は何も言わずに僕を見ている。年季の入った門柱みたいに。
「面白い言い方だね。確かに何もないところというのはたくさんある。」
僕はなんとも応えなかった。
「“ここになんの意味も無い、価値も無い、関心も無い”
と誰かが思っていたら、確かにそれは存在しないのと同じだ。
そういう点で私は今の調査も非常に面白く感じている。昨日まで存在しなかった街を掘り起こすのに大勢の大人がやっきになっている。
しかし考古学の本質はそういうものだ。何処に何が埋まっているか分からない。何処にもなにも埋まっていないかもしれない。
新しい原子や分子構造の存在はある程度予測することが出来るかもしれないが、私たちの分野はその点でとても難しい。明日にも何かが積もった土砂の中から取り出されたら、
それまでの歴史はみんな
“無かったこと”に成ってしまうね。」
「そうですね。」
僕は返事をしながら、たったい一度だけ過ごした、お役の夜のことを思い出していた。
「じゃあ発掘隊の人材部には私から申請しておこう。
現場は酷暑だよ。体調管理はくれぐれも気を配ってね。」
少しの雑談のあとで先生がそう言ってくれたので、僕は礼を述べて研究室の外に出た。
先生と会話したことで、僕はお役の夜のことをとても深い場所の心で思い出した。
何があったのか何を見たのか、細かいところまで間違えずに思い出すことができた。
いつでも出来る。僕は望めばいつだってあの出来事の映像を網膜に再生することが出来る。
いつでも出来るのだから、そう何時もは、やらない。
そして大切なのは「何が起きたかじゃない。」
「何が無かったことにされてしまったのか」
なのだ。結局僕は爺さんに嘘をついたまま本人を死なせてしまった。
正直僕が 何も見えなかった といったことで、爺さんは激しく落胆したはずなのだ。
だからこそのお役廃止の遺言だったかもしれない。
そして僕が取り付かれた物も爺さんが追い続けていたものと同じことだったと思う。
積み重ねても積み重ねても積み重ねても
一瞬で無くなってしまう、その
積み重なっていたものの正体はなんだったのか?