小説「泳げるわけでもないのに、水の中に居る。」M.PP7 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

講義の後の淀んだ気分のまま食べる自作おにぎりは
なんてまずいんだろう
すでに小汚い自分がなお薄汚れていくような、
だったらいっそ本来の自分に戻っちまえばいいじゃないか、
田んぼで泥を投げ合っていた昔のように、
と、僕はおにぎりの向こうから僕を睨みつけているおかかのかたまりに
おればっかりわるもんにすんな
という悪意を込めて思い切りかぶりついた。やるせない気持ちは静まらない。
昨日村から荷物が届いた後での今日のこの講義は
絶妙というほか無いタイミング、それは最低最悪という意味で絶妙としか言えないタイミングだった。
「ボランティア概論」というやつだ。
1995年の阪神震災をきっかけに曰く「ボランティア元年」が幕をあけた。
僕はほとんど記憶がないのだけど、その時の日本は
宗教的な慈善とか旧世代的な善意的な交流というものがほぼ薄れてかけていて、
困っている人が居ても、
そのひとがまったく見も知らない他人だとしたら、
何かしてあげるという発想になかなか至らなかったらしい。
というかそういうことになっている。テキストでは。
だからこそ例の大震災を経てボランティアという言語とスタイルが急速に世の中に浸みこんでいった。
ほとんど「今春のトレンド」みたいな状態になってしまった。
そしてそれに利便性を見出した誰かによって、このたび遂に「住民によるボランティア」が国政に取って代わる。
国が福祉だ保険だがいよいよめんどくさくなって、
「善意という最期の牙城」にそういったことを丸投げにしてしまうんだ。
というのが教科書の理論。
でも大学教授というのは教科書に書いてある2割も内容を語らない。
9割近く自分の言いたいことしか喋らない。だから勉強のしたいやつは大学に来るなと先輩はいう。
そんなことは受験する前に言ってくれればいいのにと思う。
概論の担当教授はしきりに「絆」とか「信頼関係」とか「心の交流」と言う言葉を使った。
そしてそういう単語が出るたび、その言葉たちは僕の頭の中を、スコッで集めた土砂で埋めていくみたいにせっせと薄暗い気持ちにさせていくのだった。
その後に食う自作のおにぎりである。非常にまずいものだ。
ずいぶん遠い処にいるなあ。
と僕は思った。遠いところに来たなあじゃなくて遠いところにいるなあと思った。議論は完全に僕の所属している社会集団をそっちのけにして進められている。
僕は昨日の手紙の文字の隙間から一杯に溢れてきた僕の村の空気を思った。
もうけに繋がらなくなった田地をとっくに見限って、たまにパチンコで勝ったときだけ家で不機嫌に酒を呑んでいる父や、
そういう家庭を支えるために新聞の折込作業と病院の清掃を掛け持ちしている母親。
おばあちゃんはある意味頭がしっかりしているんだけど、変にしっかりしてしまっているために
いつだって母親のことを責めている。
ある日はお母さんがおばあちゃんの許婚をフィリピンで毒殺した現地女性ということになり、
またある日は昨日買ったばかりの着物の地が見当たらないのはお前が盗ったんだろうと詰め寄る。さらに別の日にはやっともらってきた大切な配給米をヨメが一人締めしてしまう、このままでは私は殺されてしまう、と近所の人に触れ込んでいる。
爺さんが小屋役をやめたことと全く関係は無いのだが、少なくとも爺さんが死んでからそういう風になって行った村を思って、僕は、遠いところにいるなあと思っていた。
なんだか海底の砂利にへばりついて、遠くの水面を眺めているような気がするんだ。
ただただ、そんな気持ちになるんだ。
そして同じように講義を受けていた学生たちは、
あたかも色とりどりのおおらかな魚になって、この水の中を機敏に泳ぎ回っているように見える。
みんなちゃんと泳ぎ方をしっていて、そしてこの複雑な海の中を苦もなく遊泳しているように見える。
そういうわけで僕の存在は単純に場違いだった。泳げるわけでもないのに僕は水の中に居る。泳げるわけでもないのにどうして水の中に入ったのか分からずに居る。
今更どうやってあの半分解けた団体に結束を回復したら良いというのだ。
僕はひたすら遠いところにあるなあと思っていた。おにぎりを嚙みながら。
「現状の課題」というやつはただただ遠いところにあるなあと思っていた。