小説「ナミダ」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

この世の始まりの時、万物はすべて水から生まれました。ですからこの原初の水は我々すべてのお母さんと言ってもいい存在であります。

 水のお母さんが万物を生み出す時、まず最初に大勢の水の兄弟たちを生み出しました。水のお母さんは生まれた子どもたち一人ひとりに名前を付けて行きました。

「貴方の名前は海」「貴方の名前は河」「貴方の名前は湖」「貴方の名前は池」「貴方の名前は雨」「貴方の名前は霧」「貴方の名前は霜」「貴方の名前は雲」

 水の子どもたちの名前にはみんなそれぞれ意味がありました。ですから生まれた兄弟たちは名前をもらうとすぐ水のお母さんの元を離れて自分の役目を果たしに行きました。

 しかし、一番最後に生まれた小さな妹には、つけてやるべき名前がありませんでした。水の役割はみんな他の兄弟たちが持っていってしまったのです。この小さな妹の果たすべき仕事は何も無いのです。

「もう生まれる必要もないのに、何故この子は生まれたのか。」

 と水のお母さんは訝しみました。しかし小さな妹を名無しのままにしておけず、考えて、ただナミダ、とつけました。意味は分かりません。原初の世界では誰もナミダの意味を知らないのです。

 水のお母さんは小さなナミダに言いました。

「お前には役目が無いから私の傍においで。でもきっといつかその名前の意味が分かる時が来るでしょう。」

 そこでナミダは、水のお母さんの長い裾の陰にいつも隠れて居りました。

 水の兄弟たちは小さなナミダを憎みました。大勢の兄弟の中で一人姿が小さく、なんの役目も持っていないナミダが、疎ましかったのです。水の兄弟が集まって戯れる時、兄弟たちはナミダをのけ者にしました。ナミダが悲しんで声を掛けても、兄弟たちは応えてやりもしませんでした。

 ナミダは苦しみました。水のお母さんは何にも言いませんでした。

 ナミダは、自分が一人だけいつまでの役目をせずにお母さんの傍に居るから兄や姉たちが自分を疎んじるのだと感じました。だからお母さんの傍を離れていくことを決意しました。自分の力で自分の名前の意味を探しに行こうと思ったのです。そこでナミダは、水のお母さんが眠っている間に、心の中で小さくさよならを言うと、お母さんの裾を離れて旅に出たのでした。

 小さなナミダが旅に出ると、猶のこと兄弟たちはナミダを憎みました。水の役割は彼ら兄弟の領土でありました。兄弟たちはそれぞれで世界を分け合って暮らしているのです。そこへ、正式な役目を持たないナミダがやってくるので兄弟たちは憎らしかったのです。半端な妹が自分たちの役目を危ぶませるのが憎かったのです。

 海の兄が嵐を起こしてナミダを追い払いました。河の姉もそれに応えました。野を行くと雨の姉がナミダを激しく責めました。森を行くと霧の姉がナミダを凍えさせようとしました。夜が来ると霜の兄がナミダに深く突き刺さりました。

 ナミダは兄弟たちのそんな仕打ちにじっと耐えて旅を続けました。自分に役目が見つかったらきっと兄弟たちもこんなに自分を責めないだろうと思ったからです。小さなナミダは水の無い荒地を選んでとぼとぼと歩き続け、とうとうヒトの住むところにたどり着きました。

 そのころヒトはとても苦しい暮らしをしていました。ヒトも長く生きているとその親が死んでしまったり、その子が死んでしまったり、兄弟や友達が死んでしまうことが珍しくないのです。でもそうやって誰かが死んでしまっても、ヒトはどうしたらいいのか分かりませんでした。胎にたまる苦しみを、胸を塞ぐ悲しみをい、どうしたらいいのか分からなかったからです。ヒト達は誰かが死ぬたびに、苦しんで、苦しんでいました。

 ナミダはヒトが可哀想になりました。

 この人達の心は枯々だ。とナミダは思いました。哀しくて哀しくて心の大地がからからになってしまっている。何かで潤さないとヒトはやがて哀しみで死んでしまう。

 そうだ、自分がヒトの心の中に入ってあげよう。とナミダは思いました。自分は小さいけど水の兄弟だから、このヒトの中の旱魃を潤す力ならあるはずだ。そう思ったのです。そこでナミダは姿を亡くして、ヒトの心の中に宿りました。

 ナミダが宿ったヒトは、とたんに両方の目の玉からぽたぽたと雫を落としました。そして声を放って泣きました。

 声を放って泣いているとヒトはだんだんと楽になりました。胸を塞いでいた悲しみが、水になって体の外に出て行くのです。これこそが涙の意味だったのです。これこそが、小さな皆に厭われたナミダの持った役目だったのです。

 姿の無くなったナミダはとうとう自分の役目を見つけたのです。これこそ自分の生まれてきた意味だったのだ。

 嬉しくて嬉しくて、どうしたらいいか分からなくてナミダは泣きました。

 ナミダは泣きました。