明治元年(1868年)12月、王政復古を宣言した維新政府は、幕府に代わる新政権が成立したことを通知する「書契」という文書を朝鮮に送り、260年以上に亘って継続してきた「通信使外交」という特異な外交形式を廃止し、近代国家間の対等な外交関係を結ぶことを提案した。だが朝鮮は、文中に清国皇帝以外には使用を許されない「皇」、「勅」の二文字が記されていることを理由として書契の受領を拒否し、以後一切の外交関係を途絶した。清国皇帝から朝鮮国王の称号を授けられ、臣下の礼をもって皇帝に仕える建前(たてまえ)の朝鮮は、「天皇」を自称する日本国の君主が「勅書」を発して正式な外交関係の樹立を迫る、という行為を皇帝に対する許し難い冒涜と受け止め、断乎拒否したのである。

 

それは、「天皇」の臣下にすぎない「将軍」が日本の主権者と称して朝鮮国王との対等な外交関係を結ぶことはできないという「格」の問題を回避するための両国の苦心の妙案が革命による「将軍位」の廃絶によって崩れたために起こった複雑極まる問題であった。それまで幕府は天皇の存在を後方に隠して将軍の呼称を「大君(たいくん)」として前面に押し出し、朝鮮は将軍を「国王」と呼んで、その代替わり(ごと)に「通信使」という使節一行を派遣して祝意を表するだけの外交関係に止めたのである。それによって幕府は将軍権力の正統性を演出すると共に貴重な貿易を維持し、朝鮮はその機会に日本の国情を探り、徳川政権の安定性と両国の友好を確認し、再侵略の危険を回避することができたのである。

 

だが、明治元年(1868年)日本は革命によって将軍位を廃絶し、天皇を国家の主権者として前面に押し出す政策を執った。その変更を真っ先に伝えるべき相手が朝鮮だったのである。朝鮮は「国王」である将軍に代わっていきなり「天皇」が登場し、「勅書」を送って国交を正常化しようと呼びかけたことに驚愕し、困惑した。日本国の君主が天皇を名乗るということは、自分は中国皇帝と同格である、と宣言したも同然で、その天皇が朝鮮国王に国交正常化を迫るとは、清国を離れて日本に服属せよと要求するも同然ではないかという理解になってしまうのである。

 

一方で、朝鮮の書契受領拒否を許すべからざる侮辱と受け止めた日本の政府にはこれ以後、無礼な朝鮮を討つべしとする「征韓論」が広まってゆく。だが、版籍奉還から廃藩置県へと封建制の残滓を払拭して中央集権体制への移行を急がねばならない政府に征韓の軍を発する余力がある筈もなく、その問題は等閑に付されたまま4年半の月日が過ぎた。そして明治6年(1873年)5月、一日本商人の些細な密輸事件を取り上げて日本を「無法之国」と断じる掲示を日本公館の前に掲示した朝鮮当局の処置を契機として、日本政府内部に朝鮮出兵論が巻き起こったのである。

 

出兵論者の板垣は、現地日本公館の要求通り居留民保護を名目とする一大隊の派遣を主張した。この機を捉え、軍事力を発動して行き詰った外交交渉を進展させ、開国・国交樹立を迫ることが彼の目的であったと考えられる。これに西郷は、派兵は朝鮮人民の疑懼(ぎく)(疑いと恐れ)を招き、趣意に反する結果となろうと反対し、全権を委ねられた大官の使節派遣を主張、その任には自らが立つとの意向を表明した。この時点では西郷は、板垣の威圧外交論に平和外交論をもって対抗したと考えられる。

 

しかし、その構図は2か月後西郷が板垣宛に送った7月29日付書簡によって一変する。この中で彼は有名な「使節暴殺論」を展開して板垣に即時出兵論を捨てて使節派遣先行論に賛成するよう説得した。それは日本が使節を先に差し向ければ、「彼(朝鮮)より暴挙の事は差し見え候につき、討つべきの名も(たし)かに相立ち候」、朝鮮が暴挙に及ぶことは目に見えているのだから、朝鮮討つべしの名分も確実に立つ、という説である。

 

西郷は、出兵そのものに反対なのではなく、公然と使節を派遣すれば朝鮮は彼を殺害するに決まっているのだから、朝鮮討つべしの名分が確実に立つ筈だ。その使節には是非私を遣わせてもらいたい、と願い出たのである。

 

西郷の論理にはかなりの無理がある。その一つは使節を送れば朝鮮は必ず彼を殺すだろうという断定である。朝鮮を隣国の使節を問答無用と殺害するほど粗暴と決めつけては平和外交の成立する余地がない。その使節に彼自身が立つということは、我が身を生贄(いけにえ)に供して板垣の出兵論に確乎たる名分を与え、朝鮮を侵略することが西郷の目的であった、と解する外ないであろう。私が学んだ60年ほど前の歴史学の通説はそういうものであった。

 

だが1980年、「明治六年政変」の著者毛利敏彦氏は、西郷は交渉による修好実現を期していたが、出兵論者の板垣を味方につける手段として、あえて使節暴殺論を主張したのだという新説を打ち出して学界を震撼させた。西郷は交渉成立を期したが、征韓派の板垣を味方につけて多数派を形成しなければ使節就任が叶わないので使節暴殺論を持ち出して彼の支持を得ようとしたのだ、というのである。

 

だが、それでは西郷は自分の命を種に虚言を弄して板垣を(あざむ)き、使節就任を射止めたが、三条の妨害と卒倒そして大久保のクーデターによって敗れ、本心を明かさぬまま辞職下野して一切を闇に葬ったことになる。そんなことが現実にありうるだろうかと私は腑に落ちなかった。それよりは西郷の文面を文字通りに解し、真意を告げて板垣を説得しようとした、つまり彼は本心から死ぬ覚悟で板垣を説得し、交渉成立か暴殺かの勝負を賭けようとしたのではないかと思ったのである。

 

もう一つは、朝鮮問題とは果たして西郷を死なせて戦争に持ち込まねばならないほど差し迫った重要問題だったか、ということである。これは明白に否だと思う。明治6年(1873年)5月、この問題が火を吹いて以後、10月28日に政変に敗れた西郷が辞職下野して鹿児島への帰途に就くまでのほぼ5か月の間に、在留邦人に危機が迫ることや、朝鮮当局が日本へのさらなる圧迫措置を執ることは絶えてなかったのである。それどころか朝鮮政府は一切の外交関係を断ち切ったために日本の政治情勢を探る手段を失って、日本で「朝鮮討つべし」の議論が吹き荒れ、一歩間違えれば朝鮮出兵が断行されようとしたことを最後までまったく知らずにいた、という驚くべき事実があったのである。

 

西郷は、日本公館からの続報によって現地で事態が鎮静化しつつある状況を把握していた。だが彼は、それは表面上のことで朝鮮側の外交拒絶の姿勢に変わりはなく、潜在的な緊張はなおも残存している、という公館の判断を支持した。というより、彼はもはや死を覚悟した朝鮮への旅を差し止める、いかなる意見も判断も受け入れる気を失くしていたであろう。