維新政府始まって以来初めての巨額公金流出事件を惹き起こした山城屋和助とは、陸軍中将山県有朋が長州藩の奇兵隊総督を務めていた頃、彼の部下で共に戊辰戦争を戦った野村三千三(みちぞう)という名の男である。彼はその後、山城屋和助の名で商業を営み山県の縁故により兵部省の御用商人となって軍需品の納入を任され、たちまち豪商にのし上がったという、政商の典型のような人物であった。彼と山県の間には何の癒着も贈収賄も存在しない、と信じる者が仮に一人でも政府にいたとすれば、その者はよほどの馬鹿で無能だと見なされたであろう。

 

山城屋は山県の権力を背景に長州藩出身の軍人官吏たちを遊興の巷(ちまた)に誘い込み、ほとんど骨がらみの癒着関係を築き上げていた。彼は陸軍省が軍需品の輸入用に保管していた洋銀(外国製の銀貨、主に国際通貨として信用の高いメキシコ・ドルだったと思われる)の価値低落に苦慮していることを知ると、保管中の洋銀15万ドルを借用し、これを運用して利益を上げ、利息をつけて返済すると提案し、借り出した資金を生糸相場に投資したが、折から勃発した普仏戦争の影響で国際相場が暴落して大損害を被った。すると山城屋は損失挽回のため、さらに公金を借り出し、フランス商人に直接生糸を売り込むと称してパリに赴いたが、商談どころか連日歓楽街で豪遊を繰り広げる有様を外務省に密告されて問題が表面化し、責任を追及され窮地に陥った山県が辞表を提出した、という次第であった。陸軍省と大蔵省が被った損失は最終的に80万円、現在価値にして160億円相当に上ったという。

 

明治5年(1872年)7月、巡幸帰途の天皇一行と別れ、急遽帰京した西郷の現状認識と解決方針は驚くべきものであった。彼が渡欧中の大久保に書き送った手紙によれば、近衛局は「少々物議沸騰」しているが、実は「さしたる事にもこれなく」という程度にすぎない。それでも山県は辞めるといって聞かないので、私も彼の側に立って「ともに難を引き受け申す」と言い、「鹿児島隊の難物」を「是迄(これまで)打ち任せ置き」にしていたのが「不行届(ふゆきとどき)の訳」なのだから「此の上はともに尽力仕(つかまつ)るべく候につき、なにとぞ再勤」してくれるよう説得したところ「ようやく合点いたされ候」ということになった、というのである。西郷は、山県と山城屋の癒着が省全体の規律を緩めた結果としての公金流出には一切触れず、近衛局の「物議沸騰」とは「薩摩隊の難物」を「打ち任せ」にしておいた「不行届」が原因なのだから山県が辞職する必要はなく、これからは自分も一緒に「尽力」するので「なにとぞ再勤」してくれと説得し、ようやく納得してもらった、と言っているのである。

 

西郷は、彼に廃藩置県クーデターへの参加を求めに来た山県を高く評価し、彼の念願とする陸海軍、特に陸軍創設の任務を彼に託すことを決めていた。軍人政治家として申し分のない資質を有し、若くして非武士の志願兵を組織した長州藩奇兵隊の総督を務め、欧州に渡って西洋流の軍事学や戦略・戦術を学んだ山県なら彼の期待に充分応えられるだろうと見込んだのだ。その山県が西郷の最も嫌悪する政商との癒着に陥り、省内の規律弛緩を招いて巨額の疑獄事件を惹き起こしたことを知った西郷は、真相を究明して容疑者の犯罪事実を明らかにし、断乎たる処分を行う姿勢をまったく見せることなく、ただ山県の辞意を翻(ひるがえ)させることに力を尽くし、逆に彼の辞職を迫った近衛兵、中でもその中核となった「薩摩隊の難物」を「打ち任せ」にしておいた「不行届」を問題視して彼らを軍から排除しようとした。彼は、官僚と商人の癒着を憎み、三井財閥と結託する長州閥の井上馨を公然と「三井の番頭さん」呼ばわりして憚らない硬骨の人物だったが、自ら能力を見込んで抜擢した長州人の山県が実は井上と同様の腐敗官僚だったことを知った後も、代わりの効かない有能な部下を失うより事件を闇に葬って彼を庇うことを選んだのである。西郷は、山県の近衛都督辞任のみを認めて彼を陸軍大輔に留めて軍制改革に専念させることとし、後任には陸軍元帥に就任した西郷自身が就いた。彼が山県の処分を求める近衛兵たちに対し、「本日、山県狂介(「有朋」の本名)を辞職せしめた。もしなお諸君にして言うことあらば、自分がそれを聞こう」と告げると、皆異論なしと答え、これをもって武官の動揺は鎮まったという。

 

だが、事件の追及はこれで終わらなかった。外務省から山城屋の行状を聞いた司法卿江藤新平が真相究明に乗り出したのである。足元に火が点いた山県は電信を発して山城屋を至急呼び戻し、貸し付けた陸軍公金の返済を迫ったが彼に返済能力がある筈もなく、万策尽きた山城屋は一切の証拠書類を焼却し、11月29日、陸軍省内の一室で割腹自殺を遂げた。これによって捜査は行き詰まり、陸軍省会計監督長の船越衛(ふなこし・まもる)が公金貸付の責任を一身に負って辞職したことをもって事件は終息し、山県は辛くも政治生命を保ち得た。船越は翌年の「明治六年政変」によって江藤が司法卿を退いて野に下った後、大久保が新設した内務省に返り咲き、以後千葉、石川、宮城の各県知事を歴任し、貴族院議員、宮中顧問官へと昇進を重ね、男爵を授けられる。彼の長男は山県の次女と結婚、生まれた男子は山県の養子となって、やはり男爵の地位を得る。山県の船越への感謝の念がどれほどのものだったかを窺わせる挿話である。

 

その頃、西郷は東京を去って鹿児島に帰郷していた。理由はまたしても久光である。天皇巡幸中に提出した建白書への回答が届かないことに苛立った久光は、三条太政大臣と徳大寺宮内卿に対し、回答がない限り上京には応じられないが、「要路の人物を一人」派遣願えれば十分に論談を遂げたいと要望した。久光が派遣を要求する人物とは西郷以外にありえないことは明白であり、そこまで仰せられるなら、と西郷は腹を決め、明治5年(1872年)11月、帰国の途についた。

 

久光は面会を求める西郷に、帰国理由を書面で届け出よと命じた。西郷は、巡幸の折に御機嫌伺いに訪れず「御恩忘却」の嫌疑を受け、実に恐懼(きょうく)する次第で「其(その)罪を謝し奉(たてまつ)るべき賦(つもり)」との上書を提出した。大久保らが留守の間だけ(当初の予定では、この頃には帰国している筈だった!)とはいえ、事実上政府の最高指導者である西郷が、何の政治的権限も持たない久光に忙中はるばる鹿児島まで呼びつけられ、何のために帰国したのか書面で答えよと命じられ、御機嫌伺いにも伺わず、御恩を忘れた振る舞いの嫌疑を受けたことはまことに恐れ多く、その罪をお詫び申し上げるつもりで参上致しました、と丁重この上ない態度で詫びを容れねばならなかったのである。これに対し久光は、積もり積もった西郷への鬱憤を一挙に浴びせかける詰問状を突きつけて釈明を要求した(落合弘樹著『西郷隆盛と士族』より)。それはまるで明治維新という名の革命がまったくなかったかのような、封建領主が家臣の無礼を一方的に断罪する時代錯誤の文書であった。