私がこの長い連載を始めた理由は、親幕府勢力との最後の戦いとなった戊辰戦争が終結し、明治新政府が本格的に活動を開始したまさにその時から革命に最大の貢献を果たした西郷がまるで人が変わったような迷走を続けた後、彼自身が全身全霊を傾けて成立させた政府に対し、最大の武装叛乱を企てた末に敗死しなければならなかった理由とは何だったのかを知りたいと思ったからだった。それには西郷が斉彬の命を受けて江戸に旅立った安政元年(1854年)から明治6年(1873年)、征韓論争に敗れて鹿児島に帰国するまでの19年間に及ぶ彼の軌跡を追ってみなければならず、それが浅学の私には3年を要する大仕事になったのである。

 

今思うことは、西郷は尊皇攘夷の志に燃えたわけでも、西洋諸国の文明に学んで日本の近代化を目指したわけでもなく、ただ一人の薩摩藩士として、有力諸藩の藩主たちとの連携によって一橋慶喜を次期将軍に擁立し、藩主たちの幕政参加を目指すという主君斉彬の政治構想を実現する政治工作の任務を忠実に果たしたのだということである。斉彬は、井伊大老の発動した「安政の大獄」のさなかに国元で没し、西郷はその知らせを斉彬の密命を帯びて向かった京都で知った。彼の受けた衝撃はまさに天が墜ちたかと思うほどのものだったであろう。西郷はとっさに殉死しようとして月照に止められ、今暫く先君の遺命を果たすために束の間の生を貪ることを決意する。彼は亡君の政治理念の最も忠実な実践者として幕府と有力諸藩の連合を結成し、朝廷との融和を果たして強力な統一政権を樹立する戦いに斃れてこそ、あの世で先君の霊にまみえる面目が立つ、と心に決めて激動の幕末を生き抜いたのだ。

 

西郷は斉彬の死後、斉興、久光二代の「事実上の藩主」に忌避され、通算4年数か月に及ぶ流人の境遇を強いられたのち、元治元年(1864年)2月、大久保らの嘆願によって赦免される。帰藩した西郷はすぐに京都へ派遣され、以後明治元年(1868年)5月、上野戦争に勝利して江戸を去るまでの4年間、脚気のために国元に引き籠りがちの久光に代わり、京都藩邸を拠点に幕末の薩摩藩を率いてゆく。彼は「禁門の変」で長州藩との激闘を制し、第一次長州征伐を無血で終了させる軍事・外交手腕を発揮するが、幕府はこれを認めず第二次長州征伐を計画する。これに西郷は反撥して長州との盟約に転じ、彼らの武器調達を支援して第二次長州征伐を幕府の惨憺たる失敗に終わらせる。その一方で西郷は新将軍となった慶喜と薩摩、越前、土佐、宇和島藩の実権者との「四侯会議」開催に漕ぎつけ、諸藩連合の幕政参加に望みを繋ぐが、慶喜の峻拒にあってついに幕府と諸藩の連合政権結成の望みを捨て、武力倒幕へと転換するのである。

 

西郷は倒幕の大業を果たした後、郷里鹿児島に立ち戻って50日間も日当山(ひなたやま)温泉に籠って狩猟と湯治に日を送った。戊辰戦争後に兵と共に帰国したのは西郷に限らず、長州藩の木戸も土佐藩の板垣も同様にほぼ同じ時期に兵を引いて帰国している。「官軍」の実体が諸藩の供出した「藩兵」だった以上、戦争が終われば彼らが兵を連れてそれぞれの藩に帰るのは当然のことだった。違っているのは、木戸も板垣もやがて政府に復帰するが、西郷は50日を過ぎても東京には戻らず、そのまま薩摩藩に仕えたということである。西郷は万人が認める革命の象徴というべき人物だったにも関わらず、革命戦争の終結と共に政府を去って鹿児島に隠棲し、その後元の薩摩藩士に戻ってしまうのだ。

 

理由は今も判然としない。考えられるのは、西郷が自分の役割を革命軍の司令官に限定していて、戦争が終わった時点で彼の役目も終わったと考えたということである。西郷は斉彬が存命ならば彼を補佐して藩政の経験を積むべき大事な5年近い期間を孤島の流人暮らしに費やしている。赦されて帰藩した時にはすでに大久保や小松が久光の側近の地位を得ていて、西郷は軍事と外交に専念する外なかった。元々無欲で斉彬の遺命を果たして死ぬことしか眼中になかった西郷は、後事を木戸や大久保に託し、自らは故郷で隠居する気になったというものである。私はこれが一番ありそうだと思う。

 

西郷の隠棲は、藩主忠義の来訪によって終わりを告げる。彼は西郷に藩政に戻って改革を成し遂げよと命じ、薩摩藩士の意識に戻った西郷は主命に従ったのである。藩政に戻った西郷は、下級武士と上層部との深刻な対立に直面する。戊辰戦争に功を挙げた下級武士たちは、出兵に反対し西郷の足を引っ張った重臣たちを罷免または左遷に追い込み、藩の実権を握る勢いを示していた。そこに政府から藩債の整理と家禄の徹底的削減の命が下されると西郷は、藩主一門や重臣たちの禄を削って下級武士たちに酬いる政策を断行して下級武士たちの圧倒的人望を獲得するが、同時に久光以下の門閥の激しい怒りと憎しみに晒されることになる。

 

以後の西郷は、否応なく時代の波に翻弄されて没落してゆく薩摩藩士族の期待と、彼を逆臣とみなして執拗に攻撃を繰り返す久光の憎しみを背に負って明治の世を生きることになる。この西郷の苦衷を一時的にせよ救ったのは、久光と西郷を政府に出仕させよとの天皇の勅命を帯びた岩倉勅使と共に鹿児島に帰国した大久保の計らいであった。彼は全国でただ一つ、あたかも久光の独立王国の様相を呈している薩摩藩の状況を憂慮し、久光と西郷の二人を鹿児島から引き離して東京に召し出し、政府に協力させることを思いついたのである。

 

明治3年(1870年)12月、西郷は岩倉勅使に「意見書」を提出して政府復帰の条件を示した。そこには薩長土3潘の兵士1万を「御親兵」として献上する形をとって政府直属の軍とすること、西洋の兵制に学んで近代陸海軍を創設することと並んで「外国の盛大を羨(うらや)み財力を省りみず(中略)蒸気仕掛けの大業、鉄道作の類、一切廃止し根本を固くし、兵制を充実する道を勤む」ことなどが含まれていた。西郷は、軍事力の強化を国策の最重要課題に位置付け、盲目的な西欧化や鉄道建設をはじめとする政府主導の産業振興政策に断乎反対する姿勢を示したのだ。

 

岩倉は西郷の示した条件を丸呑みして西郷の政府出仕を促し、西郷もこれを了承した。久光は脚気のために上京を翌春に延期することとし、代わりに子息で現藩主の忠義が兵3千を率いて西郷と共に上京することとした。その兵力は長州と土佐の兵計5千と共に数か月後の廃藩置県に際し諸藩への無言の軍事圧力として機能し、政府はこれによって名実共に全国を統治する中央集権体制の土台を築くことができた。西郷は、戊辰戦争以来2年ぶりに革命の巨頭にして軍司令官たる実力を改めて天下万民に知らしめ、「西郷健在」を強く印象づけたのである。