廃藩置県が予想外の無抵抗で成し遂げられた裏には、諸藩の財政が軒並み破綻に追い込まれ、政府が債務を引き受けてくれるなら進んで廃藩に応じたいと望む藩が少なくなかったという事情があったようである。勝田政治著『廃藩置県』によれば、明治3年(1870年)の時点で5万石以上の藩の内、借金が収入以下だったのは、徳川慶喜に与えられた静岡藩と佐倉藩の2藩のみ、後は軒並み債務超過で諸藩の借金総額の平均は、収入の実に3倍に上っていたという。その原因は、年貢米をほとんど唯一の財源とした諸藩の財政が商品経済の発展に伴う米価の持続的下落とそれ以外の産物(「諸色」)の価格上昇によって維持困難となっていたことに加え、1年半に亘る戊辰戦争の戦費負担が敗者となった奥羽越列藩はもとより、官軍への出兵あるいはその代わりとして戦費負担を命じられた諸藩の財政を直撃したことにあった。諸藩の多くは廃藩を待つまでもなく、内部から崩壊の時を迎えていたのである。

 

一方の政府は明治元年(1868年)、戊辰戦争の戦費を賄うために通用期間を13年間に限定して発行した不換紙幣の「太政官札」が、当初まったく不人気で額面の40パーセントの価値でしか流通しない有様だったが、かつて通貨発行元だった幕府が倒れ、諸藩の財政が壊滅状態に陥った状況下で相対的に信用を高め、明治4年(1871年)贋造を防ぐために最優秀の技術を持つドイツの工場で印刷した「明治通宝」紙幣との交換が順調に進んだことにより、ようやく1両 = 1円と設定した不換紙幣が額面通りの価値をもって国内市場に流通する段階に達していた。この経済・金融政策を強力に押し進め、国家財政の基盤を築くことに大きく貢献したのが西郷が蛇蝎のごとく嫌悪する大隈重信、井上馨らの大蔵省人脈であった。以後、彼らが諸藩の債務処理、士族の秩禄処分、農民の地租改定等々の財政、税制改革を進めることになる。

 

その明治4年8月頃、旧幕府が西洋諸国と締結した、いわゆる「安政の不平等条約」の改正を任務とする「条約改定御用掛」を兼務していた大隈参議は、条約改正交渉のため全権使節の派遣を発議した。野心家の大隈は、条約改正を廃藩置県後の最重要課題と見て、その解決に名乗りを挙げたのである。だが、大隈の派手な動きは権力欲では誰にも引けを取らない大久保の警戒心を強く刺激し、大隈を排除して彼自身が使節として立つ決意を固めさせる結果となった。彼は、大隈に対抗するために岩倉を使節団長とし、かねてより洋行を希望していた木戸をも抱き込んで、岩倉団長の下に薩長が結集する大使節団構想によって大隈の野心を打ち砕いた。

 

大久保は出発に際し、西郷に「留守政府」のまとめ役を託した。御親兵の武力を背景とする西郷の権威と圧倒的な人望、それに何より権力欲というものをまったく持ち合わせない彼の無私無欲の生き方をよく知っていたからである。西郷ならば一筋縄ではいかない各省の実力者たちの行き過ぎを抑え、自分が役目を終えて帰国すれば約束通りすんなりと政権を返してくれるだろう、と大久保は信じて疑わなかったのだ。使節団は、留守政府の役割を現行政策の継続に限定し、政策の変更や新政策の実施、官員の信認、増員を行わず、欠員が生じた場合は参議が兼任することを申し合わせた「約定書」を取り交わすことにした。大久保は、律儀な西郷は必ずこれを守ってくれるだろうと期待したのだが、それは彼の致命的な誤算となった。大久保は、西郷という男の本質を見誤っていたのである。

 

西郷が無私の忠義を捧げた主君は、彼を江戸に連れてゆき、水戸藩や越前藩との情報活動の任務を与えて中央政局に深く関与させた島津斉彬であった。斉彬は、かつての圧倒的な武威を喪失した幕府が独裁体制を維持することは困難と見て、攘夷派か開国派かを問わず有力諸藩が結束して慶喜を次期将軍に擁立し、水戸、越前、薩摩等の藩主たちがその功によって幕政への参加を果たし、朝廷との融和を図って強力な挙国一致の統一政権を樹立する構想を抱いていた。西郷は、その実現を目指す諸藩との情報活動を命じられたのだ。薩摩藩の最下級に近い身分で鹿児島から一歩も外へ出ることもなく無名貧窮の生を終える筈だった西郷は、江戸で国策に関わる政治活動に奔走することになった我が身の変わりようを省みて斉彬への忠誠の誓いを新たにしたことであろう。その斉彬が急死した後の西郷は、ひたすらに亡君の構想を実現することのみを生きる目的とし、その戦いのさなかに戦死することを秘かな願いとする男に変わっていった。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ始末に困る人」とは外ならぬ彼自身であった。亡君への忠義を貫くために束の間の生を生きる西郷には欲の持ちようなどなかったであろう。

 

西郷の志は、彼自身の信奉する革命理論を実践することにあったわけではない。彼はただ、大恩を賜り、神の如く崇敬してやまない亡君の願いを叶えるために幕府や一会桑との熾烈な闘争に臨んだのだ。西郷が無私無欲であるとは、彼自身や近親のために何かを手に入れたい、あるいは何事かを達成したいと強く願う動機そのものが彼自身の内面に存在しない、あるいは存在することを許さない強い意思が働いている、ということであろう。おそらく西郷は、斉彬の遺命を果たす戦いの渦中で死すべき自分の心中に「私」の動機や「欲」を容れる余地など絶対にあってはならない、と固く自分を戒めたのだろうと思う。その唯一無二の悲願を成就して、なお生き延びた彼の精神に巨大な空虚が生じたのは当然のことだったであろう。

 

心に巨大な空虚を抱えて隠遁する西郷の下にある日藩主忠義が訪れ、藩政に復帰し、改革を進めよと命じる。それはかつての斉彬の命令ほどに彼を振るい立たせるものではないが、かといって拒むことは許されない。西郷は、なおも薩摩藩士であり続けているのである。藩政に復帰した西郷に、大久保らの政府が諸藩に突きつけた家禄削減の命令が迫る。彼は下級武士たちの要求を抑えよという藩主の命令と戊辰戦争の褒賞を求める凱旋兵士たちの板挟みとなるが、断乎として後者の味方となる道を選び、藩主一門とその重臣たちの禄を大幅に削り、下級武士たちの処遇を手厚くする決定を下す。西郷は、主君で依頼主である忠義の命に背き、久光の激怒と憎しみを一身に受ける覚悟で下級武士たちを救済する策を選び取った。以後、彼は時代に押し流されてゆく薩摩藩士族を救うという新たな使命を自らに課してゆくのだ。

 

大久保は、西郷に留守政府のまとめ役を託する前に、この時の西郷の心情と行動の意味する処を深く考えるべきであった。西郷とは、ただ同志たる大久保の依頼に応え、律儀に実行するだけの男とは限らない。彼が依頼された現場に入り、そこで起きている様々な事件にどう対処し、いかなる結論に導かれ、どのような決断を下すか、旅立つ大久保にはもはや知る由もないのだった。