木戸と大久保が鋭く対立し、1か月あまりの混迷に陥ったあげく政治改革が振り出しに戻った明治4年(1871年)6月頃、諸省の若手官僚たちの間には、こんなことをやっている場合ではない、今すぐにも廃藩置県を断行しなければ政府そのものが自滅に追い込まれかねないという危機感と焦燥感がかなりの程度共有されていたようである。大蔵省の井上馨は、国土の3分の2近くを261の藩が今なお分割支配し、政府には1文の税も納めない状態を1日も早く改めなければ国家財政が成り立たないと憂慮し、西洋視察から帰国したばかりの軍人山県有朋は、諸藩がそれぞれ独自の藩兵を保有する状態では近代陸海軍の創設など手のつけようもない状況に憤懣やる方ない思いを抱えていたのである。そんな彼らに向けられた鳥尾と野村の熱弁は彼らを廃藩置県クーデターへの蹶起に駆り立て、木戸、西郷、大久保の3巨頭をして廃藩の即時断行を決意せしめる歴史的成果を挙げたのである。

 

藩と藩主への絶対的忠誠を基盤として倒幕への道を切り開いてきた革命第一世代の3巨頭にとって、藩を一挙に全廃し、旧主である知藩事たちを一斉に免官し、共に戊辰戦争を戦った多くの兵を含む膨大な数の武士たちの身分と家禄さらには武士の誇りを根こそぎ奪い去らずにはすまない廃藩置県を断行するには、現代に生きる我々には想像もつかないほどにも痛切な心理的葛藤を乗り越えねばならなかったであろう。それは主君に反逆し、朋友とその家族を路頭に迷わしめる、武士にあるまじき不忠不義の所業であり、大久保が恐れたように藩主と家臣たちを反革命内乱に再結集させかねない危険極まりない賭けでもあった。だが、3者はその土壇場で一致結束し、政府瓦解のリスクを冒してまで武装クーデターに等しい廃藩置県を断行することを決定したのである。

 

その後の彼らの行動はまさに電光石火の素早さだった。7月9日、薩摩藩を代表する西郷隆盛、従道兄弟、大久保、大山巌(西郷兄弟の従弟、後の日露戦争で満州軍総司令官となる)の4人は、長州藩の木戸、井上、山県の3人と会談し、今後の行動方針を決定する。知藩事たちの上京を待たず速やかに廃藩を発令し、その後彼らに上京を命じ、不服を唱えて上京しない藩には「断然の所致(処置)」を執るのである。翌10日に木戸、西郷、大久保の間で発令日を14日と決定、さらに12日に廃藩置県の大綱を決定し、木戸と西郷が右大臣三条実美に、岩倉には木戸と大久保が廃藩計画を通知する。彼らは驚愕する両人に有無を言わせず政変に巻き込み、天皇の意思を諸侯に伝える役割を受け持たせる。

 

明治4年(1871年)7月14日、三条が皇居に招集された在京の知藩事56名の前で「廃藩置県の詔書」を読み上げて261の藩が一挙に全廃されることを告げ、この日不在の知藩事たちには9月中の上京が命じられた。突然のクーデターに等しい廃藩の宣告に、集まった知藩事たちは全員声もなく平伏した。西郷率いる御親兵8千の無言の威圧に屈せず、断乎として廃藩拒否に起ち上る旧藩主は、この日皇居に集合した56名の内にも、後日国元でこの驚天動地の報に接した残りの者たちの中にも、ただ一人としていなかった。僅かに薩摩藩の実力者島津久光が西郷と大久保のあからさまな反逆に激怒し、一晩中花火を打ち上げさせて憂さを晴らしたと伝わるのみであった。

 

廃藩置県によって幕藩体制を完全に終了させ、唯一の合法的統一政権の座を確立した政府はその直後、懸案の政治改革を実行する。その要点は、太政官を国権の最高機関に位置づけ、その下に置かれる正院が事実上の政府として立法・司法・行政の最高決定権を持つ。ここに木戸、西郷に加え、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信を昇格させ、薩長土肥の代表各1名が参議として、神祇、外務、大蔵、兵部、文部、工部、司法、宮内の八省を統括するのである。各省には卿、大輔、少輔が配置され、卿が空席の省は大輔がその職務に就く。例えば大蔵卿が大久保(薩)、外務卿が副島種臣(肥)、卿を兼ねる兵部大輔が山県(長)、工部大輔が伊藤博文(長)といったところである。この内、木戸、大久保、伊藤はやがて岩倉使節団のメンバーとして出発するため、井上馨大輔(長)が大蔵卿の代理を務め、西郷参議が同省の事務監督を担当する。


政府は、藩を県に改めて知藩事たちを失職させる代わりに、藩の債務を引き受けて彼らを借金から解放し、後に知藩事時代の家禄も保障した。さらに政府は彼らに「華族」の称号を与えて身分と名誉を保障し、旧藩から離れて東京に居住することを命じた。それは、封建領主の身分を失う知藩事たちを東京に移し、旧領との絆を遮断して叛乱の芽を摘むと共に、彼らに天皇に仕える貴族の称号と名誉を与え、従来の家禄を保障する救済策であり、元は彼らの家臣であった政府首脳や官僚たちの後ろめたさを和らげる措置でもあった。武家出身の知藩事たちはこれを歓迎して続々と東京に集まり、同様に華族となった公家たちと共に日本の上流社会を構成する。ただ、島津久光・忠義父子のみは東京への移転を拒否して鹿児島に留まり、あたかも鹿児島県を独立国とするかのような振る舞いを見せて西郷と大久保を悩ませ続けるのである。

 

旧藩主たちにこれほどの優遇策を講じた政府は、できることなら元は同じ身分であった士族にも然るべき地位と家禄を保障してやりたかったであろう。だが、僅か261家にすぎない旧藩主たちとは異なり、総人口3千万人の7パーセントに相当する200万人弱に上る士族たちに従来通りの家禄を支給し続けることは所詮不可能であった。こうして旧幕時代、支配階級の末端に属し、革命の主力を担った下級武士たちは、時代遅れの身分意識に凝り固まって新時代の官僚や軍人あるいは商人に変身しえない巨大な失業者集団として没落を余儀なくされてゆくのである。

 

そのような士族、中でも旧薩摩藩士族の悲運に最も心を痛めたのが西郷であった。薩摩藩は総人口62万の4分の1、他藩を圧する15万もの武士を抱える尚武の藩で、その多くは外城士と呼ばれる百姓同然の無禄の武士だった。藩政に復帰した西郷は家禄削減を命じられると、迷わず藩主一門とその側近たちの家禄を大幅に削減し、外城士を武士の列に加えて禄を支給し、下級武士たちの家禄に下限を定めて彼らを保護する政策を進めた。そのため武士数の削減を図った他藩とは逆に薩摩藩の武士数は急増し、政府を驚かせると共に藩財政の一段の悪化を招く原因となったのだ。明治4年、政府に出仕した西郷は、一方で西洋諸国の兵制を取り入れ、国民に平等の兵役義務を課す徴兵制を実施して近代陸海軍を創設する任務を帯び、他方では身分と家禄を失い、路頭に迷う膨大な数の士族、中でも彼自身が急増させた薩摩士族の救済策を講じねばならない倫理的責務を負うことになった。西洋諸国に学んで近代軍創設に邁進する一方で、その結果として没落を余儀なくされる薩摩士族の救済に奔走する、矛盾に満ちた西郷晩年の苦悩はここに発するのであった。