後に明治元年と改元される慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いは、慶喜の復活を策する山内容堂、伊達宗城、松平春嶽らの諸侯と西郷、大久保ら薩摩藩討幕派との力関係を一挙に逆転し、討幕派が政府の主導権を奪取する歴史的転回点となった。勝機を掴んだ彼らは慶喜および会津、桑名藩主を追討する「官軍」を江戸に派遣し、1年半に及ぶ戊辰戦争の幕を明ける。これに勝利した薩長土肥の討幕派武士たちは、土壇場で倒幕を忌避した彼らの主君を政府から排除し、4藩の実力者たちが権力を掌握する体制を築いてゆく。

 

西郷のいない政府を率いる立場にあった大久保や木戸は多忙を極めていた。彼らが直面した課題は、何よりも政府の財政基盤を確立することだった。ウィキペディアによれば、明治初年の全国総石高はおよそ3200万石であったという。この内、政府は旧幕府および戊辰戦争の敗者となった奥羽越諸藩からざっと300万石を没収して国庫に組み入れたが、残る2900万石は依然としておよそ250家ほどの諸大名の保有する処だった。新政府が幕府に代わる唯一の合法政権として全国を統治する国家体制の構築を望むなら、この状態を放置しておける筈がなかった。ここから藩主の領主権を否定し、「藩」を全廃してすべての国土を国有化する「廃藩」の構想が生まれてくる。だがそれには、およそ3300万人と推定される全人口の7パーセントに相当する230万人の武士家族の処遇をどうするかという最大の難問が待ち構えているのであった。「武士」とは、言うまでもなく、旧時代の支配階級であり、現在の権力者や戊辰戦争を戦った多くの兵士たちの出身母体にして革命の主力を担った集団である。その彼らが所属する武士階級を藩から切り離し、家禄の支給を停止するということになれば、彼らの憤激が挙げて政府に向かうことは当然と言うも愚かであった。

 

その頃、ほとんどすべての藩は事実上、財政破綻の状況に直面していた。幾世代にも亘る巨額の債務超過に加え、旧幕府の長州征討や新政府による辰戦争の戦費負担を課されたことから、累積した債務はすでに自力では返済不能のレベルに達していたのである。政府はこの事態を認識し、いずれ諸藩の債務を引き受ける代わりに藩を全廃して全国の徴税権を掌握し、統一通貨を発行し、巨額の借款を得て諸藩の債務を整理し、産業投資を行って経済を活性化し、徐々に債務を返済してゆく方策を案出、実行する以外に進む道はないのであった。

 

おそらくこの危機を認識した辺りで、政府に参加した武士たちの多くは、もはや武士身分に執着してはいられないことを痛感したであろう。彼らは藩に所属する武士であることを辞め、「天皇の官僚」に変身することによって旧藩主の束縛を離れ、新時代の権力者の地位を築いてゆくのである。そのような政府首脳にとって情において忍び難いことながら、倒幕維新に多大の貢献を果たした武士たちに褒賞をもって報いるどころか、逆に彼らの身分制的特権を根こそぎ剥奪し、家族もろとも路頭に迷わせることになる根本的変革をあえて行わなければ、政府も藩も、そして無数の武士たちも共倒れの運命を免れないのであった。

 

明治2年(1869年)1月、木戸や大久保は薩長土肥の藩主たちに「版籍奉還」の建白を行うよう働きかけて彼らの同意を得て、4藩の領地・領民を天皇に返上することを願い出させることに成功した。これによって、形式的であれ彼らは進んで領地の支配権を政府に譲り渡すことになった。彼らは自分たちが先頭を切ることによって諸藩を追随させ、全土の「王地王民化」が完了した後、改めて元通りの領地が下賜されるだろう、と期待していたらしいのだが、それはまったく叶わなかった。政府はこれを手始めに諸藩に対し、有能な人材を登用して責任ある地位に就け、藩政の改革に任じることを要求する。その第一の目的は、諸藩の債務圧縮と最大の費用項目である家禄の徹底的削減であった。政府はまず諸藩の債務を徹底的に削減した上でそれを一括肩代わりし藩主の債務履行を免除する代わりに彼らを藩から切り離し、藩主と藩士の主従関係を廃絶し、次なる目的の「廃藩置県」への準備を整えてゆくのである。

 

西郷が旧主忠義の願いを容れて薩摩藩政に復帰した陰にはこのような事情があった。忠義は、彼をてこずらせて止まない下級武士たちの圧倒的信望を集める西郷を起用することで彼らの要求を抑え、西郷の権威をもって政府の過度の要求を抑制する効果を期待したものと思われる。だが西郷は、ひとたび改革の任に就き、藩の実情を知るにつけ、下級武士たちの過酷な状況に深く同情し、彼らの要求を最大限叶えることを改革の柱に据えることになる。西郷は、冷徹なリアリストであった大久保とは対照的に情(じょう)に厚く、かつての自分と同じ階級に属し、彼に従って戊辰戦争の戦場を転戦した下級武士たちの窮状を黙って見すごすことができない人物だった。彼は外城士と呼ばれた無禄の武士たちに改めて家禄を支給し、城下士の底辺にある武士たちに手厚く藩主一門や上層家臣に厳しい削減策を実施して久光の激怒を買い、下級武士たちにはなお一層慕われることとなるのだが、その後の歴史過程は主君への忠誠を尊ぶ薩摩武士であることを片時も忘れない西郷に厳しい試練を突きつけることになるのである。

 

明治2年(1869年)から3年にかけての西郷は、彼と大久保を激しく憎む久光の執拗な攻撃に晒され、心身共に疲れ果てた状態にあったようである。久光にしてみれば、世が世であれば西郷に切腹を申しつけても飽き足らぬ心境だったに違いない。西郷は初めて対面した時から無礼この上なく、久光の率兵上洛に際して先鋒を任せ、下関で待てと命令したにもかかわらず彼を置き去りにして京都に上った時はまさにその寸前だったのだ。その西郷を生かしておいたばかりに、自分が見出し登用した大久保は西郷と手を結び、主君の自分を差し置いて政府の首脳となり、今や自分に命令しようとしているのだ。それを思えば東京にいる大久保には届かない彼の怒りと憎しみを身近の西郷にぶつけてやらなければ彼の気が休まることはないのであった。

 

明治3年(1870年)9月、薩摩藩は東京に派遣していた2大隊1千余の兵士を、交代の部隊を待たずに帰藩させることにした。世人はこれを久光の政府に対する不快感の表明であると受け止め、彼のみならず西郷までもが政府に対して批判的であり、いずれ両者は「大兵を挙げて朝廷を一変する」だろうと噂した。大久保はこれを受けて薩摩藩の反政府的態度を抑え、その力を政府の力量強化に向けるべく久光と西郷を共に東京に呼び寄せる策を進めてゆく。彼はまず欧州から帰ったばかりの西郷の弟従道(つぐみち)を鹿児島に派遣して兄を説得させ、次いで岩倉を勅使に立て、大久保自身に木戸を加え、決して否とは言わせない態勢をもって11月、鹿児島に出発する。それが大久保が鹿児島の地を踏む最後の旅となるのである。