明治元年(1868年)11月、戦い終えて鹿児島に凱旋した西郷は日当山(ひなたやま)温泉で50日ほどの湯治の日々を過ごしていた。倒幕維新の大業を果たした後は、山野に獲物を追い、温泉に浸って狩りの疲れを癒す隠居の身となることを西郷は本気で願っていたようである。彼は、亡君斉彬に死に遅れ、命に代えて護るべき月照を我が手で殺して生き永らえた罪を償い、あの世で二人の霊に再び相まみえる際の申し訳とするための戦死を願って戊辰戦争を戦ったのだが、運命はなお生き永らえることを彼に強いたのだ。その後、新たに発足した政府の果たすべき使命は、再び内乱を起すことなく、国家を繁栄、発展の軌道に乗せ、西洋諸国の干渉を許さない強国へと変貌を遂げることに転換し、よき死に場所を得る西郷の願いは当面叶わぬこととなったのである。

 

西郷は、日当山の湯に浸りながら、この先どう生きればよいか途方に暮れる思いだったかもしれない。彼はたしかに独裁的権力を固守してきた幕府を打倒する偉業を達成したのだが、かといってその後にいかなる国家を建設すべきか、という明確なビジョンを持ち合わせてはいなかった。それが必要になる時には彼はこの世にいない筈だったのだ。だが、国家ビジョンの欠如とは西郷に限った話ではなく、ほとんどすべての討幕派の武士たちに云えることだったであろう。明治維新とは、19世紀の西洋に発した帝国主義が中国を経て日本に到達したことを契機に沸き上がった排外主義の主張が、軍事力の絶望的な格差を認め、西洋諸国の要求を受け入れて開国を是認した幕府の現実主義と激しく衝突した武家内部の権力闘争であり、後年のロシア革命や中国革命のように何らかの革命理論の実践というものではなかったのだ。そのため新政府は、モデルとすべき国家像を持ち合わせず、典拠となりうる西洋諸国の諸制度についても充分な知識もないままに日々押し寄せる難問に対処する中から目指すべき国家像を徐々に探り当てる外なかったのだ。

 

西郷は、志を同じくする諸勢力を幅広く糾合し、その結束力をもって幕府に権力の移譲を迫り、諸藩の政権参加を実現することを目標とした人であった。彼は、薩摩藩がその先頭に立つ使命を負うべきことを確信していたが、同時に薩摩藩は幕府や一会桑のみならず長州や土佐などの諸藩から「権力への野心あり」との疑念と警戒心を常に向けられる運命にあることをよく理解していた。ゆえに西郷は、まず彼自身に権力への志向がなく、薩摩藩全体としても他藩に優越する地位と権力を求める野心がないことを事あるごとに示そうとした。そうしなければ、独立性の強い藩の集合体である反幕勢力の結束を保つことは極めて困難だったのである。日当山に引き籠った西郷は、革命政府の権力バランスを保つには、自分が身を引くことが一番だと本気で思っていたに違いない。

 

だが、西郷の隠遁願望が叶えられることはついになかった。明治2年(1869年)3月、薩摩藩主島津忠義が西郷の滞在する温泉地に直々に足を運び、藩政に復帰するよう彼に命じたのである。忠義は、戊辰戦争から「凱旋」した西郷派の下級武士たちが戦功の褒賞を求めて保守派の上級家臣と激しく対立し、藩分裂の危機に瀕した状況の打開を西郷に求めたのだ。これより先の2月、久光は東京から大久保を呼び寄せて凱旋兵士たちの説得に当たらせたが、門閥打破、人材登用、藩政の全面的改革を主張して止まない彼らは門閥派とみなした人物を一斉に追放する挙に出ていた。大久保の説得は功を奏せず、彼は薩摩藩士の身分を脱して「天皇の官僚」に変貌した自分に寄せられる藩士たちの冷たい視線を意識せずにはいられなかったであろう。大久保は帰朝前に西郷を訪ねた。そこで二人は藩と国政の実情について意見を交わしたものと思われる。あるいは大久保は、薩摩藩の改革について西郷に後事を託したかもしれない。彼らにとって、倒幕戦争の主力を成した薩摩藩の下級兵士たちと主君である久光父子および彼らの側近である一門閥族との深刻な対立は、数ある大名家のありふれた内紛として済ませられるような問題ではなかったのである。

 

こうして西郷は忠義の願いを容れ、藩政に復帰することを決断したのだが、それは暫く安定を保っていた主君久光とのほとんど宿命的ともいえる対立の炎を再び燃え上がらせずにはすまなかった。久光は、凱旋兵士たちの声望を一身に集める西郷を藩政改革の中心に据えれば、必ず彼らを扇動して潘の分裂を深刻化させずにはおかないだろうという猜疑と不信の念をもって彼を迎え撃つことになるのである。久光は、幕府独裁制の継続に反対する公武合体派の主張を貫いた人ではあったが、その本質はあくまでも封建体制の存続を望む封建領主の域を出なかった。彼は人材登用の必要性は認めたものの、藩主とその一門および上級家臣から成る門閥が藩を支配する構造を改める必要性を認めることは決してなかったのである。

 

これに対し西郷は、藩主の願いを容れて藩政に復帰したとはいえ、一旦改革への取り組みを開始すると、彼や久光の望み通りに凱旋兵士たちの要求を抑え込むことを良しとはしなかった。彼は、かつての自分と同じ身分の下級武士たちが自分の命令に従って戊辰戦争に従軍・転戦し、身命を惜しまず勇戦したことによって倒幕派が辛くも勝利を納めることができたのだ、と理解する前線指揮官であった。その後、300にも上る諸藩の大半が戊辰戦争の戦費を賄うために累積した債務超過をさらに悪化させ、自力で再建不能の状態に陥っていることを認識した革命政府は、全国の大名に徹底的な家禄の削減を命じることとなった。薩摩藩でその任務を引き受けた西郷は、武士とは名のみで無禄のままに放置された「外城士」という最下層の武士をはじめとして、むしろ下級武士の禄を増やし、その財源を一門および上級家臣の家禄の大幅削減に求める改革案を打ち出した。

 

これに久光は烈火のごとく怒り、逆に他藩に類を見ない優遇策に浴した下級士族たちは西郷を神の如く崇め、命を投げ出しても悔いない尊敬を西郷に寄せることになってゆく。それは久光の怒りと憎しみをさらに増幅させ、両者の不和はもはや修復不可能なレベルに達してゆく。大久保とは異なり、互いに相容れない対立関係に陥ったとはいえ、薩摩武士であることを決して捨てることのできない西郷には、いかに凄まじい憎悪を浴びようとも、自ら久光との君臣の絆を断ち切ることは絶対にありえない選択であり、西郷を慕い、命を捨てても彼に従おうとする薩摩藩下級士族たちにこれから降りかかる過酷な運命から彼らを護り抜くことは、三度(みたび)死に損なった彼の新たな使命となってゆく。それが薩摩藩の下級武士の出自を持ちながら革命の巨頭となって武士という階級そのものを消滅させ、「国民」となった百姓、商人、職人たちを招集し、近代戦を戦う兵士に仕立て上げる「徴兵制」を基盤とする近代軍の創設を担う西郷の運命を決することになるのである。