慶応3年(1867年)12月の王政復古クーデターは薩摩藩、中でもその中心を担った西郷や大久保に対する京都在住の旧幕臣や会津、桑名両藩士の激しい怒りを掻き立てずにはおかなかった。慶喜は、このまま京都にいては会桑と薩摩藩の軍事衝突が発生しかねない情勢を恐れ、彼らを引き連れて大坂城に退去した。この慶喜の政治的決断は、期せずして政治・経済の重要拠点である大坂を制圧して新政府に軍事的威圧を加え、京都・大坂間の物資輸送を遮断することも可能な戦略的優位を確保する効果を挙げた。慶喜はこの大坂城で英・仏・米ら6か国の外交官を引見し、討幕派のクーデターを数名の諸侯が公議を待たずに行った暴挙と非難、当面は自分が旧将軍として外交問題を処理する覚悟であると宣言し、新政府への対抗姿勢をアピールした。

 

慶喜にしてみれば、それは当然のことであっただろう。彼は、目前に迫った内戦の危機を回避するために朝廷から委任された政権を返上し、朝廷はこれを受理して新たな政権が成立するまでの間、彼を将軍職に留める決定を下し、諸侯を集めて次期政権のあり方を定めようとしたのであった。その間、慶喜は粛然として政局に関わらず、朝廷の沙汰に従って当面は将軍職の責務を果たす姿勢を示したのである。しかるに西郷や大久保に使嗾(しそう)された薩摩藩主らは、会議の場をクーデターの舞台と化して彼に朝敵の汚名を着せ、官位と領地を奪おうとする暴挙をもって報いたのだ。

 

慶喜の悲憤の情は、新政府の要職に就いた慶勝や春嶽などの徳川家親藩・譜代諸侯の胸にも響いた。彼らは慶喜が専制君主の座を下りて彼らと同じ大名の列に加わるのであれば、慶喜を新たに設立される「公議政体」に迎え入れ、権力を分かち合うか、あるいは彼を盟主とし、有力諸藩の藩主を閣僚とする諸藩連合政府を創設することを望んでいたのであり、慶喜をあたかも反逆者のように罪に落として領土を没収することは、同じ立場の封建領主である藩主たちの望むところではなかったのである。土佐藩の後藤象二郎は、このような「公議政体派」の心情を察し、慶喜は2百余年も続いた幕府を自ら進んで廃絶し、朝廷に政権を返上することによって内戦の危機を鎮める英断を下した功労者であって、彼のみが辞官納地を強制されるいわれはないと主張し、慶喜から徳川家の領地を奪って新政府の財源に充てるという薩摩藩の主張は、かつて彼らが土佐藩との間に交わした「約定書」中の「新政府の費用については各藩が石高に応じて負担することに同意する」という条項に矛盾する、と厳しく論難した。

 

後藤の主張は諸藩の共感を呼んで西郷と大久保は政府内で孤立し、妥協に応じる外ない立場に追い込まれてゆく。政府は12月23、24の両日に開かれた三職会議において、慶喜に前(さきの)内大臣と称することを許し、政府の入費は徳川家のみの負担とせず「天下の公論」をもって確定することとし、この問題については徳川家の親族である尾張藩と越前藩に「周旋」を委ねることを決定した。そして同月26日、尾張・越前両藩主の名代として尾張藩家老成瀬正肥(まさみつ)が大坂城内でこの趣旨を記した「御沙汰書」を慶喜に渡し、彼の同意を得る。これによって慶喜が近く上洛し、議定に就任することで事態収拾が図られることとなった。この情勢を見た西郷、大久保、岩倉らの討幕派は、彼らが乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負を挑んだ反幕府クーデターが慶喜の復権によって失敗に終わる危険が目前に迫ったことを知る。その絶体絶命の窮地から西郷らを救い出したのは、まさにその前夜の12月25日、江戸で発生した「薩摩藩邸焼き討ち事件」であった。

 

事の起こりは1年前の慶応2年12月、土佐藩江戸藩邸の惣領を務めていた板垣退助が水戸藩を追われた浪士たちを容堂に無断で江戸の土佐藩邸に匿ったことに遡る。翌3年5月頃、彼らの処置に窮した板垣は薩土盟約を結ぶに当たり、西郷に彼らの身柄引き取りを頼み、断り切れなかった西郷は江戸の薩摩藩邸に彼らを引き取ることにしたのである。その後、慶喜の大政奉還と西郷らが画策した「倒幕の密勅」(おそらく偽の)に促された薩摩藩の京都出兵がほぼ同時に行われる緊迫した情勢の下で、西郷は江戸で騒乱を起こすことを浪士たちに指示した。すでに尊皇攘夷の志を失い、狂暴化した彼らは「御用盗」となって将軍不在の江戸市中で商家を略奪、暴行、放火し、幕吏に追われる度に薩摩藩邸に逃げ込む行動を繰り返して薩摩藩に対する幕府の憤怒を高め、ついに12月25日、忍耐の限度を超えた幕府は、薩摩藩邸の全面攻撃を指示したのである。

 

この事件は、旧幕臣たちの積もり積もった怒りを爆発させ、江戸の者たちは慶喜に薩摩討伐を訴えるために続々と大坂を目指して出発し、大坂城内では慶喜に連れられて京都から移って来た旧幕臣、会津、桑名藩兵たちが一斉に討薩を主張して止まない情勢となる。こうなってしまえば慶喜の新政府入りは宙に浮き、逆に慶喜名義の「討薩の表」を掲げて朝廷に薩摩討伐を願い出ようとする旧幕臣たちの動きを慶喜といえども抑えられない情勢となってゆく。そしてついに慶応4年(1868年 )1月3日、京都に進撃する旧幕府軍と西郷率いる新政府軍が鳥羽伏見において激突する事態に発展するのである。西郷はこの思いがけない事態の発展に欣喜雀躍したと伝えられる。もはや慶喜擁護派との政争の段階は過ぎ去り、京都に進軍する幕府軍を鳥羽伏見で迎え撃つ武力決戦へと舞台は移ってゆく。それこそが栄光ある戦死の機会を求め続ける武人西郷の望むところだったのである。