慶応3年12月8日、正午に開かれた朝議は夕刻に至っても結論に至らず、この日参内した尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽、芸州の浅野長勲(ながこと)の三者は宮中に留まり、議論の行方を見届けねばならなかった。徳川慶喜、松平容保、松平定敬ならびに老中たちは病と称して参内せず二条城で事態の推移を見守り、薩摩藩主島津忠義は明日の政変に備え、御所近くの相国寺に兵と共に陣取っていた。11月29日に阪神間の打出浜に上陸した長州藩兵は西宮に陣営を張り、上洛の許可が下りる時を待っていた。その夜更け、会議は長州藩主父子の官位を旧に復し上洛を許可することを会議の結論として諸藩の重臣に示し、明日の夜明け前に答申を提出するよう申し渡した。事が武家の処分に関する問題であるだけに朝廷といえども一方的な処断を避け、諸藩の答申を待って正式の決定を下そうとしたのである。その後、会議は和宮降嫁を策した廉(かど)で尊王攘夷派の激しい攻撃を受け、蟄居を命じられていた久我建通(こがたけみち)、岩倉具視ら公武合体派公家の処分を解除し、長州から大宰府に送られていた三条実美以下5卿の官位を回復し入洛を許可することを決定し、参内した諸藩からの答申書が届くのを待つ内に12月9日の朝が来る。

 

同じ8日、西郷、大久保、岩倉らの討幕派は御所の内外で翌日に迫ったクーデターの準備を急いでいた。彼らはこの日岩倉の処分が解除され、参内が許可されることを見越して宮廷工作を開始した。岩倉は翌9日の朝、参内して「王政復古」すなわち幕府から朝廷に政権が返上され、新政府が成立したことを宣言し、その中核を成す総裁、議定、参与の三職に就任する廷臣、諸大名、有力家臣の人事を発表するところまで一挙に事を進める宮中工作の主役を務めるべき人物なのである。討幕派の意を受けて朝議に出席した公家たちは、明け方までにクーデターを成功させる条件を整えるために、たとえ徹夜の審議になろうとも長州藩の地位回復に続き、岩倉を含む公家たちの処分解除と参内の許可を何としても勝ち取らねばならなかったのだ。

 

8日の夕刻、岩倉は上洛を取りやめた宇和島、備前、佐賀の3潘を除く薩・土・尾・芸・越5藩から2名ずつの家臣を選んで自邸に集合させ、藩主の参内を命じる天皇の沙汰書を渡し、兵員の出動を命じて配備の場所を通達した。5藩の兵たちは、それぞれ卯の刻までに指定の場所に集結した後、全軍の指揮を執る西郷の命に従って御所の9門を固め、徹夜の朝議を終えて退去する者と、この日参内する者との交代が終了した後は一切の出入りを遮断し、御所全体を外界から隔絶する警護体制を敷くのである。

 

9日の朝、勅使が岩倉邸を訪ねて彼の蟄居を免じ、参内を許す宣旨を手交した。岩倉は衣冠を着し、王政復古の宣言文を入れた文箱を持って御所へ向かう。西郷は薩摩藩兵を率いて出動し、大久保も御所の内に入る。諸藩の兵はそれぞれの持ち場に着き、唯一蛤御門の警護に当たっていた会津藩兵は薩摩藩兵の接近を見て、これを藩邸に報告する。クーデター計画を事前に知らされていた慶喜はこの事態を予期し、会津藩主松平容保に薩摩の挑発に乗ってはならぬと厳命していた。藩邸は撤兵を命じ、会津藩兵は営所を引き払い、後を土佐藩兵が引き継いだ。正午過ぎ、参内を命じられた廷臣、島津忠義それに山内容堂が到着、小御所に列座して5藩の大名が揃うと、岩倉が王政復古を宣言、幕府、京都守護職それに所司代といった武家の役職に加え、摂政、関白、左右大臣および朝廷の全官職を廃絶し、幕府との関係が深かった二条、近衛、鷹司ら21名の参内を停止する処分を告げた後、休憩を挟んで三職の任命人事を布達した。ここまで討幕派の無血クーデターは滞りなく進み、夕刻に至って三職に任命された面々が小御所に呼び集められて新政府の第1回閣議ともいうべき「小御所会議」が開催される。主要メンバーは以下の通りで、慶喜は除外されている。

 

総裁 有栖川宮熾仁親王

議定 2親王、3公卿に5藩の大名 計10名

参与 岩倉具視、他公家4名

   尾張藩士4名、越前藩士3名、芸州藩士3名、

   土佐藩士後藤象二郎他2名、

   薩摩藩士岩下方平、西郷隆盛、大久保利通

 

会議に参加せず、御所警護の総指揮を執る西郷を除く上記の面々は、天皇臨席の下に議論を開始する。彼らに残された議題は徳川家とその当主慶喜の処遇を如何にするかに絞られた。討幕派を代表する岩倉は、政権を返上すると願い出た慶喜の真意は疑わしく、これを証明するには「辞官納地」すなわち彼に与えられた内大臣の官位を一等下して他の大名と同列に置き、領地を返納させて新政府に帰属せしめ、後日改めて彼に然るべき石高の領地を与えるべきだというものであった。討幕派は、慶喜を徳川宗家、御三家、旗本、幕臣の領地を合計すれば薩摩藩の実に9倍に相当する700万石もの領地を保有する日本最大の大名の地位に留め置いては、いずれ徳川恩顧の諸大名を糾合して巨大な反政府勢力を結集し、基盤の脆弱な新政府の深刻な脅威となることを恐れて彼の無力化、孤立化を図り、同時に新政府の政治・経済基盤を強化する一挙両得を策したのであった。

 

これに対し、慶喜に大政奉還を建白した張本人である土佐藩の山内容堂は「二三の公卿、幼冲(ようちゅう)の天子を擁し、陰険の挙を行わんとし、全く慶喜の功を没せんとするは何ぞや」と猛然と反論した。二、三の公家が幼い天皇を擁し、慶喜の功績をまったく無に帰す陰謀を企むとは何事か、ということである。これに岩倉が激怒し、天皇は不世出の英材にして今日の挙はすべて陛下の決断による。しかるに我らが幼い天子を掠め取ろうとしているとは「亡礼」この上ない言辞ではないか、と叱責する有名な場面が展開し、収拾のつかない大激論となる。議論は休憩となり、会議の様子を聞いた西郷は、短刀一本あれば片づくことだ、と岩倉公に伝えよと命じたという。この上議論は無用、いざとなれば容堂を刺せ、ということである。これを伝え聞いた後藤象二郎が容堂を説得すると、彼は矛を収めて慶喜の辞官納地が決定され、クーデターは討幕派勝利の内に幕を閉じる。事を決するのは言葉ではなく武器である、と確信する武人西郷の凄みを世に伝える挿話である。