二次に亘る長州征伐は、軍事指導者としての西郷と慶喜の資質の差を際立たせ、その後の両者の関係を決定づけた戦争であった。元々西郷は、慶喜を次期将軍に擁立する政治工作に関与することから政治家のキャリアを開始した人物であり、おそらく斉彬の死後も慶喜への期待を失わず、彼を将軍とし、久光や春嶽ら旧一橋派の諸侯が彼を補佐する政権構想を描いていたものと想像される。だが、文久2年(1862年)4月、久光が強行した「率兵上洛」と勅使を伴っての江戸下向によって謹慎を解かれ将軍後見職に就いた慶喜は、幕府内に渦巻く反薩摩感情に配慮して元治元年(1864年)4月、久光が主催した「参豫会議」を粉砕し、徳川一門の会津、桑名両藩との「一会桑」政権を形成する道を選ぶ。

 

同じ頃、赦されて島を出、失意の内に帰郷する久光と入れ替わるように5年ぶりに京都に戻った西郷は一会桑との政争を避け、禁裏守衛に徹するが、長州藩との「禁門の変」では彼らと共に奮戦して長州勢を撃退し、続く第一次長州征伐には参謀格として参戦する。慶喜と西郷の軋轢はここから始まるのだ。西郷は征討軍の戦闘能力では勝利は期しがたいと判断し、長州藩が罪を認め、責任者を処罰し、藩主父子が謝罪・恭順することを条件とする撤兵を提案し、敵将吉川経幹の同意を得る。西郷は、犠牲の大きい戦争によらずとも、三家老の首を差し出し、藩主父子が公式に謝罪・恭順する姿勢を天下に明らかにすれば、長州藩は二度と叛乱に立ち上がる名分を失うことになるだろう。その倫理的負い目が抑止力として機能することを西郷は確信していたと思われる。

 

だが、幕府と一会桑はその考えに同意しなかった。15万もの大軍を預けたというのに一戦にも及ばず、軽い処罰で済ませては後日に重大な禍根を残すことになるだろう、というのが彼らの見方であった。二度と立ち上がれないほどの軍事的打撃を与えてこそ問題の抜本的解決が図られるということである。もしかしたら負けるかもしれない、という想念が彼らの脳裏に浮かぶことはまったくなかったのである。こうして幕府・一会桑は薩摩藩の反対を顧みず、第二次長州征伐を決意する。だが、数ばかりで内実の伴わない征討軍は各地で連戦連敗を喫し、多大の犠牲と莫大な出費を幕府に強いたあげく、4国連合艦隊の介入、将軍家茂の死去と予想外の事態が相次ぎ、さらに彼の弔い合戦に打って出ると宣言した慶喜が、その直後に思わぬ大敗北の悲報に接するとたちまち戦意を喪失して何の得る処もなく停戦を決断するのである。

 

西郷と慶喜は、ほぼ同じ規模の軍勢を率いて同じ相手との戦いに出陣した結果、これ以上はありえないほどの明暗を分けたのである。軍事指揮官としての両者の資質、能力の差は歴然としている、と言わざるをえないであろう。西郷が、15万対3千4百という表面的な数の差に惑わされることなく、あくまで実戦を戦う前線指揮官の目で彼我の戦力の内実を見据え、この戦いは不利だ、という結論を導き出したのに対し、幕府は圧倒的というも愚かな数の優位を過信するあまり、長州藩の防御態勢や水面下で進みつつあった薩長間の軍事支援から盟約への活動をまったく察知することができず、新鋭銃を装備し、大村益次郎の指導の下に西洋流の歩兵戦術を叩きこまれた軽装の「散兵」が繰り出すゲリラ戦術に翻弄され、ついに一度も長州領内に足を踏み入れることなく各地で敗北を繰り返す内に将軍家茂が大坂城内で急死したことを契機に停戦のやむなきに至ったのである。慶喜の脳裏には、この無残な敗戦の体験がトラウマとして深く刻み込まれたことであろう。後年、鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂城に集結した幕府軍を見捨ててひそかに軍艦に乗り込み、江戸へ逃げ帰った慶喜の最高司令官にあるまじき行動の原点はこの辺りにあったのではないかと思うのだ。

 

この成り行きをじっと見ていた西郷は、改めて彼が下した無血撤兵の判断の正しさに自信を深め、間違っても戦闘を仕掛けなくてよかった、と安堵の胸を撫で下ろしたのではなかろうか。もし彼が開戦を求める幕府の圧力に屈し、攻撃を仕掛けていたら、果たしてどのような目に会っていたか。考えるだけでもぞっとしたに違いない。慶喜は戦争に負けても将軍の跡目を継ぐことができたが、おそらく西郷は敗戦(あるいは予想外の苦戦)の責任を問われ、切腹あるいは相当の処罰を受けたことであろう。彼は幾多の兵士と彼自身の生命を救うと共に、幕府にとってもこれ以上は現実に望みえない成果を挙げたにも拘わらず、幕府と一会桑はそれを踏みにじることによって、自ら進んで破滅への道を突き進んでいったのである。

 

慶応2年12月、将軍の座に就いた慶喜は、兵庫開港問題の解決を迫られた。それは5年間延長された後、来る西暦1868年1月1日(和暦では慶応3年12月7日)に最終期限が到来し、その6か月前の6月7日をもって開港を告知することが定められていた。そこで慶喜は、どうしても5月末までには新帝(後の明治天皇)の勅許を得ねばならぬと覚悟を決め、慶応3年(1867年)2月19日、肥後藩以下10藩に対し、この件につき3月20日までに意見を具申せよと命じ、併せて藩主たちの上洛を促した。

 

同じ頃薩摩藩は、第二次長州征伐の失敗、将軍家茂の急死、慶喜の将軍就任、天皇の急死等、激動ただならぬ京都情勢に危機感を深め、京都藩邸から急遽帰郷してきた西郷の要請に応えて重臣会議を開き久光の上洛を要請した。久光はこれを了承し、西郷を高知の山内容堂、宇和島の伊達宗城の下に遣わして両侯から上洛の同意を得る。そして久光は同年3月、脚気の病を押して7千と号する兵(実数は700と云われる)と共に鹿児島を出発する。京都では小松が奔走して、かつての参豫会議に出席した松平春嶽の上洛を要請し、山内容堂、それに伊達宗城と共に「四侯会議」を開き、薩長盟約に従って長州復権の合意を取り付けて慶喜との談判に及ぶ手筈を調えていた。こうして5月、慶喜の目指す兵庫開港と四侯が重視する長州処分の二つの議題を巡る四侯と慶喜の権力闘争が開始されることになった。