慶応2年(1866)年6月、征討軍の周防大島砲撃をもって開始された第二次長州征伐は幕府にとって、それから1年前の江戸出発の時点から誤算続きの末に思いもよらない惨敗を喫した悪夢の戦争であった。これを機に幕府は凋落の一途を辿り、挽回の機会を掴めぬまま遂に明治元年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いの敗戦によって命脈を断たれるのである。事ここに至る直接の原因は、西郷が無血の内に終結させた第一次長州征伐の成果を幕府が全否定して彼を激怒させ、薩摩藩を長州藩との提携に駆り立てたことに求められる。幕府と一会桑は、征長総督徳川慶勝と参謀格の西郷が戦わずして達成したと考える征討の目的を共有することを拒否し、あくまでも藩主父子の処罰、領地の大幅削減、家督の傍系への移譲という厳罰を科すことを求めて再び大軍を発する決断を下したのだ。では西郷が考えた長州征討の目的とは何だったのだろうか。

 

西郷は初めから交渉による解決を主張していたわけではない。むしろ禁門の変に勝利した勢いを駆って、大混乱に陥った長州藩に立ち直る隙を与えず、ただちに討伐軍を派遣すべきだと主張していた人物なのである。その西郷が長州藩三家老の首と引き換えに無血撤兵論に転向した理由の第一は、彼がじかに目にした征討軍の無統制状態にあったと思われる。幕府はこの戦に徳川一門の藩主あるいは貴公子を征長総督とし、諸藩に出兵を命じて招集した15万(10万ともいわれる)の大軍を率いて出陣させようとした。主として外様大名の犠牲と経費負担によって反乱軍を討伐する「島原の乱」以来の常套手段である。だが衰退期の幕府には、もはや諸大名に有無を言わせず出陣を迫る力はなく、彼らは口実を構えて難を逃れようとし、総督候補に擬せられた慶喜や紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)も相次いでこれを固辞したために人選は難航し、3か月を空費した後にようやく慶勝に落ち着いた次第であった。その結果、征討軍は名目のみの総督の下で、諸藩がそれぞれ独自の指揮権を持つ35の軍団に分かれて個別に戦う無統制の軍隊になったのである。

 

西郷は、勅命とはいえ、このような征討軍を率いて決死の覚悟で防衛ラインを固める長州を討つ意義について考え直すところがあった。征討軍の長州征伐は難航し、薩摩藩も多大の犠牲を強いられるだろう。その結果、長州を降伏させたとしても、それは幕府の威信回復を助け、幕府独裁権力の復活を利するのみである。力を得た彼らは諸大名の離間策を進め、薩摩藩の孤立化を謀るかもしれない。それは西郷の目指す有力諸藩の合従連衡策とはまったく相容れないものである。西郷は思案の末に「長人を以て長人を処置致させ」る策を思いつく。長州藩自身が罪を認め、責任者を処罰し、藩主父子が朝廷および幕府に謝罪・恭順することを条件に、戦わずして征討軍を撤兵させ、朝廷が幕府、一会桑および征討に出兵した諸藩の代表を招集して開く会議の結論によって長州処分の内容を決定するという策であった。

 

西郷はこれによって第一次長州征伐を無血の内に終結させたのだが、幕府と一会桑は西郷の解決策を否認し、将軍家茂を先頭に立てて長州再征の軍を発するという最悪の侮辱を彼に投げつけた。激怒した西郷は幕府を見限って長州藩との提携を策し、遂に慶長2年(1866年)1月、京都に潜入した木戸孝允一行を小松帯刀の寓居(ぐうきょ)に招き、薩長盟約の合意を結ぶ。ここに西郷が念願とした有力諸藩の合従連衡第1号が誕生する。その合意内容とは以下の通りである。

 

①長州藩と征討軍の戦争が始まれば、薩摩潘は軍勢を京都、大坂に派遣して幕府に圧力をかける。

②長州勝利の旗色となれば薩摩は朝廷に長州復権を働きかける。

③長州苦戦の旗色となっても半年から1年は持ち応え、その間に薩摩は何らかの長州支援策を講じる。

④幕府軍が引き揚げれば薩摩はすぐに朝廷に申し上げ、長州藩の冤罪を晴らすべく尽力する。

⑤薩摩の兵力が上方に揃い、朝廷に長州藩の赦しを請う行動に出た際に一会桑がこれを妨害するならば決戦に及ぶ外なしと考える。(家近良樹著『西郷隆盛』)

 

この薩長合意は、かつて「薩長同盟」と呼ばれたが、今では双方が対等の義務を負う「同盟」とは呼び難いとする学説が有力のようである。私は家近氏の説に従って「薩長盟約」と呼ぶことにする。確かに条文を一見すれば、長州に対する薩摩の軍事、政治および外交支援ばかりが列挙されている印象を受けるが、それも無理はない。15万に上る幕府の大軍を迎え撃つことに精一杯の長州には、薩摩の尽力に報いるべきいかなる手段の持ち合わせもなかったのだ。私は①と③に注目する。彼らは「長州勝利」がありえると見込み、たとえ苦戦に陥っても半年や1年は持ち応えることを前提として、この盟約を結んでいる。負けるつもりで戦争を始める馬鹿はいないのだから当然だが、互いに敵味方に分かれて実戦を戦った薩長の軍人たちには、第一次征討軍の実情を見るにつけ、あの軍隊相手なら、戦い方によって勝つ道がある、という共通認識が生まれていたのかもしれないのだ。少なくとも長州藩に一人、そう考える人物がいたことは確かである。それは大村益次郎という名の蘭方医上がりの軍学者だった。

 

慶応2年(1866年)6月に開始された第二次長州征伐において、大村がどのような戦法を用いて征討軍を撃退し、長州軍を勝利に導いたかは、「革命家」西郷の謎(40)大村益次郎のゲリラ戦法 に記した。幕府は親藩および譜代の諸潘を主力とする15万の大軍をもって征討軍を瀬戸内海の周防大島、広島、島根、門司との4つの国境(くにざかい)から攻撃を開始したが、いずれの戦線においてもただの一度も国境を突破することなく、同年9月征長を停止する。この間の7月20日、将軍家茂は大坂城内にて脚気衝心(かっけしょうしん)のため21歳の若さで薨去、急遽慶喜が徳川宗家の家督を相続したが将軍位は固辞。慶喜は家茂の弔い合戦として8月12日をもって芸州(広島)口に出陣すると宣言したが、8月8日、慶喜出陣の報に奮起した征討軍が芸州口に大攻勢を掛け、あえなく敗退したことを知ると、たちまち戦意を喪失し16日、出陣辞退を申し出、二次に亘る長州征伐は事実上この日をもって征討軍惨敗の内に終結する。