元治元年(1864年)11月23日、征長総督徳川慶勝が長州藩三家老の首実検を終えた後、西郷は広島から小倉に赴き、五卿の移転を条件に第一次長州征伐を終結させる方針を副総督の越前藩主松平茂昭(もちあき)や薩摩藩先鋒隊に伝えて了解を求め、なおも征討を主張する強硬派の越前藩、熊本潘の説得に努めていた。そのさなか、中岡慎太郎という名の土佐脱藩浪士が訪ねて来た。中岡は脱藩後長州に亡命し、禁門の変に従軍、負傷した経歴の持ち主だった。その後彼は長州に匿われていた五卿の衛士(えじ)を務め、無血撤兵の条件として長州を去ることになった彼らの身の安全を西郷に嘆願するために来たのである。西郷はこれを受け、単身下関に乗り込んで五卿移転に反対する長州藩諸隊の幹部と交渉し、彼らを一人ずつ5潘に分けて預ける案を撤回、全員を福岡大宰府に移すことで妥協を成立させた。

 

西郷ともう一人の土佐脱藩浪士坂本龍馬との関りは、同年9月、西郷が勝海舟を訪ねた時に遡(さかのぼ)る。その頃海舟は軍艦奉行として神戸で「海軍操練所」を開き、諸藩から練習生を募って航海技術を学ばせる傍ら、「海軍塾」という名の私塾を開いて身分を問わず、意欲ある者に航海技術を教えていた。坂本はその塾頭を務めていたのである。西郷と海舟は意気投合し、後に江戸城総攻撃を巡り、互いに官軍と幕府を代表する立場で交渉の席に就くことになる。海舟は坂本に西郷との面会を勧め、出会った二人は後に歴史的な「薩長盟約」を実現させる上で重要な役割を果たす。11月、海舟は塾生の中から長州に与(くみ)して禁門の変に参加した者がいたことが発覚して軍艦奉行を罷免され、江戸に召喚されるのだが、神戸を去る前に薩摩藩の小松帯刀に坂本ら塾生の後事を託した。この頃西郷は、広島で長州との停戦交渉のさなかにあり、海舟との再会は叶わなかった。翌慶応元年(1865年)3月、海軍操練所の閉鎖を機に薩摩藩は坂本を頭とする土佐脱藩浪士たちを大坂藩邸に引き取り、五代友厚の出資を得て長崎で「亀山社中」という名の貿易・海運会社を設立させ、武器弾薬、戦略物資の購入、輸送を請け負わせることを決定する。

 

中岡と坂本の行動は、土佐脱藩浪士の生き方を象徴するものとなった。彼らは共に武市瑞山(実名「半平太」)が結成した土佐勤王党の同志だったが、坂本は文久2年(1862年)島津久光の率兵上洛に加わるために下関を目指し、中岡は翌文久3年(1863年)土佐に帰国した前藩主で隠居の山内容堂が発動した勤王党大弾圧を逃れてそれぞれ脱藩、中岡は長州に亡命したが、坂本は薩摩軍の出立に間に合わず、かつて剣術修行に滞在した江戸に赴き、その地で勝海舟の知遇を得て彼の神戸赴任に同行したのであった。薩摩や長州という堂々たる大藩の重役になりおおせていた西郷や木戸らと異なり、一介の浪人にすぎない中岡や坂本らの土佐藩浪士は、個人の力量によって諸藩の実力者あるいは海舟のような変わり種の幕臣の支援を受け、行動の自由と弁舌の才を活かして反幕勢力間の連絡、仲介、秘密活動を請け負う「周旋家」となるか、急進過激派の暗殺部隊に属して「天誅」の刃を振るうか、あるいは禁門の変などの叛乱に加わるか、いずれにせよ幕府の追及を逃れつつ最も危険な任務に就く外なかった。彼らの多くは、捕縛しようと斬り捨てようと、どこからも抗議を受ける気遣いのない格好の獲物として所司代や新選組につけ狙われ、非業の最期を遂げる運命だった。中岡と坂本も2年後の慶応3年(1867年)、京都の近江屋で密談中、会津藩見廻組(みまわりぐみ)の襲撃を受けて落命するのである。

 

西郷が、幕府の長州再征を阻止せよ、との久光の密命を帯びて京都に戻ってきたのは慶応元年(1865年)3月だったが、その任務は彼が着く前に大久保と小松の奮闘によって、ほぼ成し遂げられていた。彼らは長州藩主父子と五卿の江戸召喚を暫く見合わせることを幕府に命じる天皇の「御沙汰書」を獲得する成果を挙げ、久光の期待に応えたのだ。任務を果たした大久保は西郷と入れ替わるように京都を去り、西郷はその後40日ほど京都に滞在した後の4月22日、小松と坂本を伴って鹿児島に出発、5月1日に帰着する。坂本を同行させた目的は、以後彼を薩摩藩の密使として活用することを藩に周知させ、併せて薩摩藩の内情を彼によく理解させることにあったと思われる。

 

5月16日、西郷は坂本に大宰府に行って三条実美ら五卿に面会した後長州へ赴き「同所の事実探索」を要請して旅立たせる。坂本は、熊本で横井小楠を訪ねた後大宰府で三条と対面、その後下関に赴く。同じ頃、京都の薩摩藩邸にいた中岡は鹿児島へ出発、閏5月6日(当時の暦には3年に1度の閏月(うるうづき)があり、1年を13か月として太陽暦との誤差を調整する仕組で、この年には5月が正と閏の二度あった)に西郷と面会し、上洛途中の下関で木戸孝允と会見するよう説得、彼の同意を得た後下関へと向かう。この地で彼は坂本と出会い、西郷との面会の仔細を告げると、坂本はそれなら自分が木戸を説得して西郷と会わせることにしよう、と応じたという。偶然というにはあまりにでき過ぎた話のように思えるが、ともかく坂本は閏5月6日、木戸孝允と対面し、渋る木戸を説得して西郷の到着を待たせることにした。

 

ところが西郷は佐賀関で、将軍進発の報あり至急上洛を願うとする大久保の書簡を受け取り、桂(小五郎、木戸孝允の旧名)との会見も重要であるが、朝議を固めることの方がより大事である、として京都へ直行し、会談は実現しなかった。先の久光置き去り事件を彷彿させる挿話だが、西郷はこの時も、木戸の怒りを買って薩長連携の機会を逸するかもしれないことを承知の上で、将軍の長州再征への出発という事態への対処を優先する決断を瞬時に下し、ただちに出発したのであった。取り残された木戸はもちろん激怒したが、坂本は緊急かつ重大な選択に直面した西郷の決断を弁護し、ようやく動き出した薩長連携の可能性を捨ててはならない、と懸命に木戸を説得した。後日、京都へ戻る坂本に、木戸はある条件を示して西郷の同意を得たいと切り出した。ここから坂本を介した木戸と西郷の薩長盟約交渉の幕が明くのである。