元治元年(1864年)4月、夢破れて鹿児島に帰った久光は脚気(かっけ)の症状を呈して歩行もままならない状態に陥り、3年後の慶応3年(1867年)3月まで鹿児島を離れられない身となってゆく。おそらく久光不在の京都を主要な舞台としたこの3年間が、西郷の生涯で最も自由かつ存分にその能力を発揮することができた幸福な時期だったであろう。久光は小松と大久保に西郷の行動を監視するよう命じていたとはいえ、朝廷、一会桑、幕府の思惑が複雑に絡み合い、激動ただならぬ京都の政局に対し、はるか彼方の鹿児島からこの二人を介して西郷を遠隔操作することは所詮不可能で、結局は彼ら三者の合議に京都藩邸の命運を託する外なかったのである。そうなってしまえば、元々優れた政治家の才能を持つ小松や大久保が、攘夷か開国かの不毛の対立を止め、挙国一致政権の樹立を目指し、諸藩の合従連衡を進めるべきだとする西郷の説に同調するのは単に時間の問題であった。以後、西郷が諸藩との協議と軍事を、大久保が岩倉と結んで朝廷工作を担当し、彼らの主張と行動を家老の小松が久光に代わって決裁し、国元の久光に報告するという意思決定の枠組みが固まってゆくのである。

 

京都政界の権力構造は禁門の変を境に大きく変貌する。攘夷急進派の長州が敗走し、久光をはじめ、開国論を擁護する松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の諸大名が相次いで京都を去った後、ひとり京都に残った慶喜は攘夷論に転向して孝明天皇の絶大な支持を受け、容保、定敬との「一会桑」政権を形成して国政の主導権を掌握する。だが、彼らの結束は必ずしも強固とはいえず、1千人もの兵士を京都に常駐させるために莫大な出費を余儀なくされる上に長州藩の恨み、京都市民の反感を買うばかりで何ら実益のない容保はしばしば辞職を願い出る。さらに政治の実権を一会桑に奪われ、空洞化の危機に晒された江戸の幕閣は、何とかして慶喜一派を江戸に連れ戻し、政治主導権を奪回する方策を探っていた。慶喜は彼に絶対の忠誠を誓う譜代の家臣団を持たず、ひたすらに孝明天皇の支持のみを頼みとせざるをえない孤独な宰相だったのだ。

 

御所に攻撃を仕掛け、京都を火の海にした長州を征討せよ、との勅命を受けた慶喜は、幕府に対し将軍家茂を先頭とする征長軍の進発を要請するが、老中たちは火の車の財政にさらに巨万の戦費を費やすこと、家茂を上洛させれば朝廷の人質同然に永く留め置かれることを恐れ、徳川一門から代理を選んで征長総督とし、諸藩に出兵を命じることで切り抜けようとした。だが、総督の候補に上がった慶喜、春嶽、それに紀州藩主の茂承(もちつぐ)はいずれもこれを固辞、諸藩も口実を構えて出兵を免れようとしたために人事は空転し、征長軍の進発は遅れる一方の有様となった。

 

これに対し西郷は、禁門の変の実戦を戦った者として鎮圧の総指揮を執った慶喜の擁立と早期出兵を支持していた。乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いに敗れ、逃げ帰ってきた過激派を迎え入れた長州は、彼らと穏健派、さらに保守派を加えた激闘渦巻く大混乱に陥るであろう。幕府がこの機を逃さず勅命を奉じてただちに大軍を差し向ければ、四分五裂に陥った長州はもはや敵ではない、と彼は読んだのだ。禁門の変で武威を遺憾なく発揮した薩摩藩は、ただ征討軍の主力として堂々と進軍し、戦わずして敵を降伏させるか、戦ってこれを粉砕するかのいずれにせよ戦後の政局に重要な地位を占めることができる、と彼は計算していた。だが幕府は躊躇逡巡し、慶喜は次期将軍位への野望を疑われることを嫌って総督就任を固辞して人事は空転、9月に至ってようやく尾張藩主徳川義勝を征長総督に起用することで決着した。西郷は事実上の参謀として軍議に加わることになったが、彼は貴重な時間を空費して戦機を逸した幕府の無能、諸藩の戦意のなさに失望し、この無益な戦争に夥しい兵卒の血を流すより、長州藩の面目を保つ条件を提示して降伏を促す解決策を模索する。

 

10月23日、大坂城に軍を集結させて最初の軍議を開いた徳川義勝は、諸藩が口実を設けて楽な攻め口を求める事態に困惑し、西郷に意見を求めた。西郷はこれに応え「長人をもって長人を処せしむ」策を示す。それは、長州藩が内訌を繰り返しているのは「天の賜物」であり、彼らを一挙に死地に追い込むより一層の内部分裂を誘い、穏健派を支援して過激派を孤立させ、藩として謝罪させる策を提案し、西郷自身が岩国の吉川家に「周旋」を促す使者として現地に赴きたいと申し出るものだった。これが西郷の得意とする「死を覚悟して単身敵地に赴き、寛大な条件を示して一挙に和平を実現する」戦術の嚆矢(こうし)となる。義勝は即座に西郷の案を受け入れ、脇差を授けて処置を一任した。

 

西郷は11月3日、吉川経幹(きっかわ・つねまさ)に面会し、禁門の変を指揮した三家老の切腹と藩主父子の恭順謝罪を条件とする撤兵案を示し、彼の同意を得た。三家老の首級は後日広島の本営に届けられ、義勝が実検した後、征長軍は解兵して第一次長州征伐は無血の内に終結する。西郷はこの結果を見届けて下関から小倉を経て鹿児島に帰国、久光に事の次第を報告した。久光は、西郷の働きによって内乱の危機と西洋諸国の介入が未然に防がれたことを大いに喜び、彼に感状を授けて功を賞した。薩摩藩の事実上の領主として薩英戦争を体験した久光は、過激な攘夷イデオロギーに突き動かされた長州藩の暴発が内乱を惹き起こし、諸外国の介入を招いて幕藩体制を根底から揺るがす事態を何よりも恐れ、その危機を未然に防いでくれた西郷の功績を称えることに何の躊躇も覚えることがなかったのである。この年、元治元年(1864年)の幕明けには、まだ流人の身であった西郷は、その年の暮れまでには禁門の変に勝利をもたらして長州藩を京都から駆逐し、続く長州征伐を無血の内に終了させた稀代の軍略家として名を揚げ、薩摩藩を代表する人物として世に知られることになるのであった。