池田屋事件の報を受けた長州藩では攘夷過激派が激昂し、新選組を使って同志を多く殺害した会津藩を断乎討つべしと主張、京都に戦乱を起こして朝敵の汚名を受けてはならないとする木戸孝允、高杉晋作らの穏健派を斥け、6月24日、兵を京都に進める。これを知った所司代の松平定敬は薩摩屋敷に淀への警備出動を要請するが、西郷はこれを「会津と長州の私戦」とみなして拒否し、禁裏守衛の役目に徹する姿勢を明確にした。西郷は、八月十八日の政変に加担した薩摩に対する長州の敵対感情をさらに悪化させることを避けたかったのだと思われる。だが、長州勢が嵯峨、山崎、石清水の3方に布陣し、兵威をもって藩主の復権と入京の許可を嘆願に及ぶと、彼は朝廷がこれを拒否して征討の勅命を下せば戦闘は避けられないと覚悟し、その時は禁裏守衛の先頭に立って戦うことを決意した。

 

7月3日、武力を背景とする長州の脅迫に怯えた朝廷は、指揮官の入京を許可して事態を鎮めようとするが、守衛総督の慶喜は、武力をもって朝廷を威嚇する長州に戦わずして屈するなら、自分は会津、桑名藩主共々辞職する外ない、後は長州と勝手になさるがよいと啖呵を切った。苦慮する近衛に呼び出された西郷は慶喜に賛同し、長州が暴発すれば勅命を下して断乎討伐すべしと主張した。この後に及んで朝廷が長州の復権を許し、慶喜がこれに反撥して会津、桑名と共に京都を去れば、彼らは「薩賊」と憎んでやまない薩摩討伐に乗り出すに決まっていたからである。こうして7月13日に始まった「禁門の変」に西郷は手勢を率いて乾門を守り、会津勢は蛤御門を守衛して長州勢と激突する。この生涯初の実戦に西郷は乾門を守りつつ、蛤御門を突破し天皇の居住する清涼殿に最も近い公家門に迫った長州勢を横合いから攻めて撃退し、敗走する敵軍を烏丸中立売(からすま・なかだちうり)まで追ったところで足に銃弾を受けて落馬する。

 

数に勝る征討軍の圧勝に終わった禁門の変直後の情勢は、長州藩の処罰を巡って迷走する。7月23日、孝明天皇は禁裏守衛総督の慶喜に、長州を朝敵とする追討令を発したが、これを受けた幕府側の対応は鈍かった。その陰には江戸の老中たちと京都の朝廷および一会桑との間の抜きがたい不信が潜んでいた。その根源を突き詰めれば孝明天皇の徹底した攘夷思想と、その実行不可能性を知りながら決して口には出せない幕府の苦衷との解決不能の矛盾に帰着する。天皇は、安政元年(1854年)辺境の下田、箱館を開港するに止まった日米和親条約には異を唱えなかったが、同5年(1858年)下田を閉鎖し新たに横浜、兵庫、新潟、長崎の開港を約する日米修好通商条約調印の承認を求められた時は断乎これを拒否、以後慶応3年(1867年)5月、将軍となった慶喜の懇願を容れて兵庫開港に勅許を与えるまで、実に9年に亘って条約破棄と鎖国への復帰を主張し続けたのである。

 

神国思想に基づく天皇の「攘夷」思想は、西洋に対する幕府の弱腰に憤激する武士たちの素朴なナショナリズムを燃え上がらせ、ここから「尊皇攘夷」の本家本元の水戸藩、吉田松陰を処刑した幕府を憎む長州藩を起点に攘夷の炎が燎原の火の如く全国に燃え広がってゆく。それは安政の大獄を発動して政敵の旧一橋派もろとも攘夷派を一掃した井伊大老を暗殺し、皇女和宮の降嫁を策した公武合体派の老中安藤信正を失脚させ、初め穏健な開国論によって朝幕関係の「周旋」を試みた長州藩を一挙に攘夷派に転換させる凄まじい威力を発揮したのだが、天皇の政治的利用も辞さない独善的かつ狂信的なイデオロギーと化した長州藩の攘夷思想は、ついに禁門の変を惹き起こすに至って天皇の支持を失い、朝敵として討伐軍を差し向けられる事態に至ったのだ。

 

長州藩に代わって孝明天皇の厚い信認を受けた一会桑は、討伐軍の派遣と将軍家茂の上洛を幕府に要請するのだが、江戸の老中たちは先に上洛した家茂が朝廷の人質同然の扱いを受け、永く京都に留め置かれた苦い経験からこれを忌避して諸大名に出陣を命じ、適当な人物を征長総督に任じて指揮させることで決着させようとする。幕府はかつて散々手を焼かせた水戸斉昭の息子の慶喜を朝廷に心を寄せる「二心殿」と呼んで警戒し、すべてを江戸の幕閣が決める体制に戻そうとしていたのである。出陣を命じられた諸大名はこれに応じようとせず、総督の任命はずるずると遅れ、家茂の上洛もまた先延ばしとなってゆく。

 

この複雑を極める情勢下で、西郷はまたも久光の怒りを買ってしまう。彼は、近衛忠房の依頼を受けて将軍の上洛を求める使者を江戸に派遣したのだが、それが久光の了解を得ない越権行為だとの厳しい叱責を受け、国元に帰国を命じられる騒ぎとなったのだ。彼はその少し前にも禁門の変に功のあった将兵への褒賞の分配を独断で決めた行為を追及されていた。彼は身分相応の手続きに従うことよりも、現場の状況を最もよく知る軍事指揮官として必要な決断を迅速に下して最大の効果を挙げることの方を優先したのである。わけても戦功の褒賞とは、戦闘の実情を誰よりもよく知る指揮官によって、時を置かずただちに行われてこそ、その効果が最大限に発揮されるものであって、遠い国元で報告を聞いた役人たちの裁量に従っていては、真の功労者が正当に報われるとは限らず、反って不満を抱かせる逆効果ともなりかねないのだった。

 

西郷は、変事の只中に身を置いて、彼自身が見聞きし、体験した現場の状況に的確な判断を下し、最良と信じる策を、時機を失することなくただちに実行することを本領とする人物だった。それゆえに西郷は久光との不和を生じ、足掛け5年に亘る流人の境涯を余儀なくされたのだが、この後に及んでもなお、その心性は改め難かったようである。そんな西郷を物の役に立たせるには、彼の無私無欲の本質をよく理解して、そこに心からの信頼を寄せ、追求すべき目的を示して達成の方法は彼に任せる度量の大きさが必要だったと思われる。斉彬にはおそらくそれがあったのだろうが、西郷に不信と警戒の念を抱き、監視を怠らない久光には、それは到底なしえない業であった。

 

西郷の幸運は、失意の内に京都を去り鹿児島に帰った久光が脚気の症状を呈して歩行もままならなくなり、以後3年に亘る鹿児島滞在を余儀なくされたことだった。久光の名代を務める小松帯刀は9月末に上洛し、在京の幹部と協議し、西郷の帰郷をひとまず見合わせることで事態を決着させた。それは正しい判断だったといわねばならない。まもなく第一次長州征伐軍が動き出し、西郷はその事実上の参謀として出陣し、戦闘に及ぶことなく長州藩の降伏を実現させることになるのである。