元治元年(1864年)2月末、1年半に亘る過酷な流人の境涯を脱して鹿児島に帰り着いた西郷は、港から自宅までも歩いてゆけず、亡君斉彬の墓参にも駕籠を使わねばならないほど脚力が弱っていたという。藩はそんな状態の彼を僅か4日間の滞在の後、ただちに京都へ送り出した。薩摩藩にとっての京都の情勢はそれほどにも急を告げていたのである。3月14日、入京した西郷は在京中の久光に謁見して「軍賦役兼諸藩応接係」に任じられ、軍事および諸藩との折衝を担当することになる。以後、西郷は過去に類を見ない速度で昇進を遂げ、10月には側役(そばやく)という家老に次ぐポストにまで駆け上る。

 

かつての秋霜烈日、火の出るような弁舌をもって主君にさえも直截無比の諫言を辞さなかった西郷をよく知る大久保は、復帰した彼が久光に対しどのような態度に出ることか、と大いに心配していたが、案に相違して「此の節は、いったい議論もおとなしく、少しも懸念これ無く、安心仕り候」(家近、前掲書)と胸を撫で下ろす心境を吐露している。西郷は深く思うところあってそれまでの生き方を改め、今日の我々が知る寡黙にして容易に本心を明かさず、会議の席でもほとんど沈黙を守って他人の意見に耳を傾け、頃合いを見て「わかりもした」の一言で一挙に結論をまとめ上げる重厚かつ圧倒的な存在感を発揮する人物に変身を遂げていたのである。

 

西郷には、苛烈を極めた流刑の間、過去を振り返るに充分すぎる時間があった。この間に彼は、斉彬の遺命を果たすことと、久光の命に従い、彼の野望を実現するために忠誠を尽くすことは究極において両立しないことを悟ったであろう。そのどちらかを選ぶとすれば、それはもちろん前者である。だが、そのために久光と再び衝突して刑死することには何の意味もない。むしろ自分は、亡君の遺命を心中に秘め、久光公に忠誠を尽くすかのごとくに行動し、実は斉彬公の遺命を叶える方向へ久光公と薩摩藩を導いてゆく外はない、と固く決心したに違いない。西郷はその真意を何びとにも悟らせぬよう人格の徹底的な改造を成し遂げたのである。

 

もちろん久光の方も、西郷に対する警戒心を解いたわけではない。彼は西郷の独断専行を警戒し、家老に抜擢した小松帯刀か大久保のどちらかが常に西郷を監視し、その動静を自分に報告させることとし、彼自身が西郷に対面する時は、彼らのいずれか、あるいは両方を同席させるよう取り計らってゆく。久光は西郷の暴走を防ぐ万全の措置を講じた上で彼を赦免し、藩の政治と軍事を担当する役目を与えて京都に派遣する苦渋の決断を下したのだが、それには万やむを得ぬわけがあった。久光は彼自身が招いた中央政局の混乱によって藩を孤立に陥れ、窮状打開のため後事を西郷に託して薩摩に帰る外ない窮地に追い込まれていたのである。

 

その半年前の文久3年10月、久光は朝廷の命を受け、家老の小松帯刀や大久保利通らを従えて京都に着いた。朝廷は会津と共に八月十八日の政変を断行して長州藩を京都から追放した薩摩藩に今後の政局運営への諮問を下した。久光はこれに応え、性急な攘夷に反対する意思を表明し、武備の充実、旧一橋派の諸大名を主要メンバーとする参豫会議の創設を提言し、翌元治元年1月、慶喜、春嶽、容堂、伊達宗城、松平容保、そして参豫任命を機に無位無官を脱し、晴れて従四位下、左近衛少将に任官した久光を加えた6名の参豫会議が発足する。

 

第1回参豫会議の主要議題は長州藩の処置と横浜鎖港問題であった。会津の松平容保を別として大勢は開港継続に賛成するものと思われたが、以外にも慶喜が断乎鎖港を主張して久光と激突したのである。その裏には慶喜に随行してきた老中たちが、攘夷思想の権化(ごんげ)である孝明天皇が急に開国論に傾いた陰には薩摩の策動がある、と察し、先に長州に詰め寄られ攘夷実行を命じて無益の戦争を招き、この度は薩摩の策謀によって横浜鎖港案を覆すとあっては幕府の面目が立たぬと強硬に反対した事情が絡んでいた。久光の尽力によって謹慎を解かれ、将軍後見職の座に就いた慶喜は苦しい立場に立たされたが、未だ政治基盤の脆弱な彼は、老中たちの支持を失うわけにはいかなかった。2月、勝負に出た慶喜は大酒を飲んで会議に臨み、久光、春嶽、宗城を天下の大愚物、大奸物と罵倒して参豫会議そのものを叩き壊す挙に打って出る。呆れた諸大名は、容保を除き、もはやこれまでと次々に帰郷し、兄斉彬の遺命を継いで全力を挙げて擁立した慶喜にこれ以上はありえないほどの大恥を掻かされた久光も失意傷心の内に4月18日、西郷と入れ替わるように京都を去ってゆく。

 

その後、将軍後見職を辞任した慶喜は「禁裏守衛総督」の座に就いて守護職の容保、所司代に就任した桑名藩主松平定敬と共に治安を守ることを名目に孝明天皇の信認を得て京都に留まり、事実上の「一会桑」政権を形成する。薩摩、長州、一会桑の間をさまよう朝廷の行動は無節操そのものに見えるが、孝明天皇の願いはただ一つ、幕府が鎖国の国是に立ち返って破約攘夷を実行してくれることのみにあった。それは和宮降嫁の条件として朝幕間で交わされた密約であり、幕府は10年以内に必ず鎖国体制に復帰する、と約束してこの縁組を成立させたのであった。攘夷実行の密約とは、まさに公武合体の基盤を成す根本的合意であるゆえに、天皇は実行を主張して止まず、幕府は今さらそれが不可能であるとは口が裂けても言えない立場に追い込まれていったのである。

 

だが、攘夷実行の期日を示せ、と執拗に慶喜を責め立てた長州藩が京都を追われ、開国派主導の参豫会議を主催した久光が失敗して京都を去ると、孝明天皇は尊皇攘夷の本家本元である水戸徳川家出身の慶喜が親藩の会津、桑名と共に京都の治安を回復する役目を引き受けることを歓迎し、慶喜に絶大な信頼を寄せてゆく。独自の武力を持たない朝廷は、武家の軍事力によらなければ暴徒の鎮圧も、いつあるかもしれない長州藩の反撃も防ぐ方策の立てようがないのである。その致命的な弱点を徳川御三家に連なる慶喜がカバーしてくれるなら、これに越したことはないのであった。

 

西郷は、このような情勢下の京都にあって、徒(いたずら)に政局に関わって右往左往することを避け、久光に命じられた「禁裏守衛」の役目に専念する道を選ぶ。元治元年(1864年)夏の京都にはすでに多数の長州藩士が集結し、京都に兵を挙げる策謀を進めていた。これを察知した新選組が彼らの集合する旅宿を急襲する「池田屋事件」が勃発するのは、西郷の京都到着から3か月に満たない6月5日のことであった。