2日後の朝、膝が痛むという妻を置いて私は皇居東御苑に行ってみることにした。そこは江戸城の本丸、二ノ丸、三ノ丸の御殿と庭園があった場所で、今は公園として整備され、一般に公開されている。迂闊なことに私は皇居内に立ち入り自由の広い空間が設けられていることを長い間知らずにいた。両陛下が住まわれる皇居は千鳥ヶ淵や武道館のある田安門内などわずかな例外を別として、我々庶民が立ち入ることなど許される筈がない、と思い込んでいたのである。事実は、昭和43年(1968年)というから、私が大学2年生の時に上述の区域が公園として一般に開放されたということであった。その年には明治百年祭が開かれているのだから、恐らく記念事業の一環として実行されたのだろう。当時の私は皇室にはほとんど関心をもたなかったため、そのような ニュースが耳に入ることすらなかったのだ。

 

御苑に入るには地下鉄大手町から内堀に架かる橋を渡り、高麗門を潜って「桝形」と呼ばれる四角形の広場に進む。それは堅固な石垣の上に「櫓」と呼ばれる漆喰塗りの塀を巡らせた空間で、ここに入った集団は右側に開いた巨大な大手門を通るのだが、合戦時は門が固く閉じられ、袋の鼠と化した敵軍は三方の櫓からの一斉射撃を浴びることになるのである。なるほど、確かにここは武家の棟梁、征夷大将軍の居城なのだ、と納得させられる構造だ。私はきれいな四角に切り揃えられた石を隙間なく積み重ねた優美な石垣の聳える道を西方向へ進み、中之門跡、中雀門跡を通って西南端の富士見櫓に行き着いた。これは明暦3年(1657年)の大火に焼け落ちた天守の代用とされた三重の優美な櫓で、どの方角から見ても同じ形に見えることから「八方正面の櫓」と呼ばれ、その名の通り富士山、秩父連山、筑波山に江戸湾まで見渡せたという。

 

上野戦争の時、大村益次郎はここで全軍の指揮を執った。彼は長期包囲戦あるいは夜襲を主張する参謀たちの意見を一蹴し、雨の早朝に西郷軍を黒門口から山上に攻め上らせる作戦を採用した。ところが前線から来る報告は苦戦を告げるものばかりで、このまま日が暮れては一大事と苛立った参謀たちが押し掛けると、大村は中央の柱にもたれて動かず、不意に思い出したように西洋式の懐中時計を取り出してまもなく午後3時になることを確かめ、「ご心配には及びません。もうすぐ片づきます」と言って上野の方角を見た。やがて黒煙が上がり始め、しだいに勢いを増すと共に炎を噴き出す様が見てとれた。大村は参謀たちに向き直り、これで始末がつきました、と言った、怪訝な面持ちの参謀たちに彼は、あれは賊が山に火をかけた驗(しるし)であり、彼らが火を放って逃げ去ったことを示すものです、と説明した。すると暫くして騎馬の伝令が上野から駆け戻り「官軍の勝利」と叫びながら城内に入って来た、という大村の天才的軍事能力を世に知らしめた逸話を作家・司馬遼太郎氏が小説『花神』に書き残している。

 

私は富士見櫓を離れ、広大な公園の中央部に進み出た。そこが江戸城本丸跡である。前方遠くに、四辺に石垣を積み上げて造成した巨大な台地が見える。4代将軍家綱の時代に明暦の大火で焼け落ちた天守を再建するために加賀藩に命じて造成させた「天守台」なのだが、この上に天守が築かれることはついになかった。江戸市街の復興を優先すべきである、という会津藩主保科正之の意見を容れて再建が断念され、天守台だけが今に残ったのだ。天守台の前辺りが本丸の最深部で、そこから私のいる玄関辺りに向かって順に大奥、中奥、表の御殿群が所狭しと立ち並んでいた…筈なのだが、実は西郷が明け渡しを受けた慶応4年(1868年)には、本丸御殿は安政6年(1859年)の大火で焼失、再建後の文久3年(1863年)再び炎上したため幕府は再々建を諦めて西ノ丸に拠点を移していたらしい。当然、この年東京と名を改めたかつての江戸に移られた明治天皇も西ノ丸に住まわれることとなり、後の明治宮殿も自然にその場所に営まれ、現在の皇居に至るのだ。一方、焼け落ちた本丸はおそらく明治政府によって破却されたと思われるが、その経緯はまだ調べていない。その後、本丸跡地には明治期に中央気象台が置かれ、昭和30年代まで存続した後、昭和43年(1868年)皇居東御苑として整備・公開されることになった、ということである。

 

私は天守台に上り、本丸跡の全貌を見下ろしながら、江戸城を引き取りに来た西郷は、あの表門から御殿に入り、中奥辺りの大広間に一人残って感慨に耽ったのか、と勝手な思いを巡らせていたのだが、それはまったくの見当違いで、明け渡しの儀式は本丸の焼け跡などではなく、おそらく現在の皇居が所在する西ノ丸で行われたのであった。何事もしっかり調べた上で書かないと、どこで馬脚を表すか知れたものではないのである。後日その事実を知った私はひそかに胸を撫で下ろしたことであった。

 

これをもって今年の私の東京散歩は終了し、その翌日妻と私は北信濃の住まいに帰っていった。今年は亡き岳父母の法要のため11月初旬まで滞在する予定なのだが、すでに寒気が身に迫る候となっていた。それから1週間後の25日の朝、私たちは我が町の二つの山の頂上に初雪が積もる光景を目にし、早く大阪に帰りたい、としみじみ思ったものである。