慶応4年(1868年)5月15日、上野戦争は官軍の勝利をもって終結し、江戸の治安と政府軍の威信も回復した。その頃すでに奥羽や北越に新たな戦火が広がり始めていたが、政府軍は江戸を一大拠点として各地に兵を進めることができた。大村は江戸城に盤踞して作戦決定権を一手に握り、誰の口出しも許さなかった。西郷は大村への全権委任を承諾し、配下の薩摩藩幹部たちに「大村さんの節度に遵(したが)うべし」と申し聞かせていた(「節度」は指揮、命令の意)。革命軍の象徴であり、薩摩の巨魁でもある西郷にこう命じられてなお従わぬ薩摩人などいる筈もなく、最大勢力の薩摩藩が大村に従えば他藩もこれに倣うのである。24日、政府はこれまで伏せてきた徳川家の処分を布告した。田安亀之助改め家達(いえさと)の家督相続を認め、静岡と改称された駿府70万石を下賜する、というものである。最悪の場合でも200万石くらいは残るだろうと期待していた旧幕臣は大いに落胆したが、彰義隊の壊滅により武力反抗の可能性がまったく潰えた今となってはどうすることもできなかった。


その頃、東北では会津をはじめ仙台、盛岡、秋田ら26藩が同盟を結成、これに北越長岡、新潟等7藩が加わる「奥羽越列藩同盟」が成立し、政府軍と対決する戊辰戦争のクライマックスを迎えようとしていた。そのような情勢下、西郷は大村に面会し、北越に出征したいと申し出た。だが、大村は言下に断った。その必要はない、貴方が着く頃には片がついている、というのである。大村が必要としていたのは、小銃と大砲を自在に使いこなし、彼の意図をよく理解し、命令に従って行動する部隊であって、西郷を神のごとく崇め、彼の命令のみに従い、生死を共にすることを無上の光栄とする独立部隊ではなかったのだ。


大村に出征を拒否された西郷は、大総督参謀の職を辞し、江戸を去って京都に向かい、政府の内諾を得て鹿児島に戻り、藩主の許可を得て新たに一個大隊を編成して北越に出発した。西郷が我々の知る坊主頭になったのはこの時からのことだったらしい。参謀を辞して一介の薩摩藩士に戻った験(しるし)に頭を丸め、薩摩の藩兵を率いて出征するのだ、という意思を目に見える形で現そうとしたのだろうか。西郷軍の出発は8月6日、海路新潟に着いた10日には、大村が予言した通り戦闘はほぼ収束していた。続いて奥羽列藩も次々と降伏して西郷軍の出番はなく、西郷は空しく江戸に戻る他なかった。彼は、「大村さんに合わせる顔がない」と嘆いたという。


西郷は、その生涯を通じて世人の嫉視羨望を招く高位顕職に就くことを極度に嫌った人物であった。上野戦争に際しても、参謀長の権限を新参者の大村にあっさりと譲り、自身は実戦部隊の指揮官として戦うことを選んでいる。彼は、様々な人々の欲望や利害の衝突する政争に打ち勝って権力を握るよりも、単純明快に軍事的勝利を追求する戦場に身を置くことを望んだ人だったようだ。その西郷が上野戦争の次に北越出征を願い出たのは当然のことだったろうが、それは戦略的思考を重視する新時代の軍事官僚たる大村には受け入れがたいことだったのだ。


それは、稀代の革命家である西郷が、革命第二世代を担うべき官僚の戦略的判断によって戦場への派遣を拒否されたことを意味する事件であった。西郷が大村の判断を再度覆し、あくまでも戦場に出てゆこうとするなら、彼はしだいに形を整えつつあった革命政府の規定に従い、京都に赴いてその承諾を得、さらに鹿児島に戻って今なお彼の主君である封建領主の久光、忠義父子の許可を得て薩摩藩の兵を集めなければならなかったのだ。西郷は、彼の嫌った高位顕職を大村に譲ったために、本来何の抵抗も受けることなく彼の一存で即座に決められた筈の北越出征にこれだけの手間と時間を空費し、その結果耐えがたい屈辱と不名誉を被ることになったのである。


失意の西郷は永く江戸に留まることなく明治元年と改められた慶応4年(1868年)11月、鹿児島に帰り、心身の不調を癒す温泉地での湯治生活に入る。このまま隠居してしまおうと、鉄砲を担ぎ、犬を連れて兎狩りにゆく日々を過ごす西郷を政治の場に呼び出したのは藩主忠義だった。明治2年(1969年)2月、忠義は西郷を慕う村田新八を供に連れて直々に湯治場を訪れ、藩政に復帰せよと西郷に命じた。