3日目の朝、私たちは函館市を離れ、大沼公園を巡るバスツァーに参加した。メンバーはわずか9人だったが、そのうち5人は函館北斗駅で新幹線に乗り換えて東北方面に行ってしまったので、大きなバスに客が4人という寂しい旅行になってしまった。これで運転手にガイド2人なのだから採算の取りようもないツァーである。連休明けの日帰りプランにはこうした日もできてしまうのだろう。私たちは最前列に集められ、ガイドと差し向かいのような状態で旅を続けるのであった。ガイドたちもやりにくかっただろうが、客の私たちも彼女たちの解説にしっかりとうなずき、まちがっても居眠りなどしないように気をたしかに持ち、和やかな旅の演出に協力を惜しんではいられないのであった。時にお金を払って気を使いつつ過ごさねばならない日もあるのが人生というものなのである。

バスはやがて「大沼公園」の入り口に着いた。そこは函館駅からほぼまっすぐ北に20キロほどの地点にある駒ヶ岳という火山の噴火によって川がせき止められてできた湖の畔に広がる公園である。大沼、小沼という二つの湖の中と周囲に大小120以上の溶岩塊から成る「島」を浮かべている。晴れた日には湖と駒ヶ岳を背景にした絶好の撮影ポイントになるというのだが、この日は曇りで山はまるで見えなかった。

私たちは湖水の回りを鳥の影を追って歩いていった。湖の形状は変化に富み、大小さまざまな島を浮かべる景色はなかなかのものだった。野鳥の種類もかなり多く、ほとんど双眼鏡のいらない至近距離にセグロセキレイやヤマガラの飛び交う楽しい散歩道であった。だが、観光の目玉として客を呼び込むには些か魅力が足りない感は否めない。

帰り道、バスは駒ヶ岳の山麓を回り、渡島半島の太平洋側に大きく湾曲した内浦湾の鹿部町に出た。ここで10分おきに熱水を吹き上げる間欠泉を見学した。ガイドの説明によると、ここは品川を脱走した旧幕府軍が「いかめし」の駅弁で有名な森町付近で上陸した後、箱舘を目指して通過した地点であるらしい。指揮官の榎本武揚は旧幕府期待の俊秀で、オランダに発注した戦艦「開陽丸」引き取りのため当地に派遣され、完成を待つ間に操船や国際法を学び、完成した「開陽丸」を自ら操舵して帰国後、戊辰戦争の渦中に引き込まれたのである。

1868年、江戸城を無血開城させた新政府は全艦隊の引き渡しを要求したが、海軍副総裁の職にあった榎本はこれを拒否し、「開陽丸」以下8隻を率いて品川を脱走、会津から仙台に転戦していた大鳥圭介や土方歳三率いる旧幕軍3000名を収容し、蝦夷地へと向かった。この頃、徳川慶喜は領地を没収され、僅かに静岡に70万石を許されて移転を完了していた。榎本はそれを見届け、扶持を離れ衣食に窮する旧幕臣を未開の蝦夷地に移し、彼らに開拓と国境防備の任を与えることを新政府に嘆願しようとしていた。要は広大で手薄な蝦夷地を武力で占領、実効支配し、諸外国に働きかけて半独立状態に持ち込み、新政府との交渉を有利に進めようとしたのである。

榎本の強みは圧倒的な海軍力にあった。もはや自らの分身というべき新鋭艦「開陽丸」を旗艦とする海軍力によって津軽湾の制海権を握り、政府軍の上陸を阻止、長期支配を実現して蝦夷地を事実上の独立国として諸外国に承認させようという野望を抱いていたとも言われる。だが、初戦に圧勝し、五稜郭に拠点を置いた脱走軍にはツキがなかった。航海中、よりによって18万両といわれる軍資金と資材を積んだ輸送船が沈没、上陸当初から財政難と物資不足に悩まされる。さらに松前、江差と転戦した肝心の「開陽丸」が真冬の悪天候のため座礁・沈没。さらに政府軍の甲鉄艦を奪い取ろうとして奇襲に打って出た4隻の軍艦も相次いで座礁・沈没という失態を演じ、海軍は戦わずしてほぼ壊滅してしまう。

政府軍は冬の間は無理をせず、春になって上陸を開始、江差奪還後は4つのルートで五稜郭へと進撃する。この陸戦で最も奮闘したのは土方歳三隊である。土方は政府軍にとって必ず討ち取るべき公敵ナンバーワンであった。彼は幕末の京都で同士を数多く殺傷捕縛し、鳥羽伏見から宇都宮、会津、仙台さらに蝦夷地へと最も長きに渡って常に最前線で頑強に戦い続けた憎むべき秘密警察副長官であり、軍事指揮官であったのだ。土方は盟友近藤勇を出頭させ、刑死に追いやった責任も感じていたであろうし、新政府軍が自分を決して許さないこともよく分かっていたにちがいない。武州多摩の農民から剣術の腕を買われて新撰組に参加し、京都で名を上げながら、鳥羽伏見では近代軍隊の前に為す術もなく敗れたことから新撰組残党に洋式訓練を施し、自らも近代軍の指揮官に変貌していた土方にとって、この箱舘戦争こそ最後の戦場、死に花を咲かせる絶好の時と映っていたにちがいない。

土方は300人の部下を率いて「一日一銃一千発」といわれた銃撃戦を戦い抜き、よく政府軍を食い止めたが、背後の戦線が破られ、挟み撃ちの危機が迫ったため五稜郭に撤退する。箱舘港付近から迫る政府軍に対し関門を開いて単騎出撃し、狙撃を受けて戦死。ほぼこれをもって箱舘戦争は終結に至るのである。

函館に帰る道すがら、私は箱舘戦争の古戦場の幾つかを通りすぎるバスの中で、ガイドの解説を頼りに戦争の経緯を頭の中で組み立てながら、もはやかつての激戦を偲ばせるよすがもない夕暮れの田舎道を函館へと帰っていった。それが私たちの函館旅行の終わりなのであった。

付記
私たちが北信濃から帰ってから早や7ヶ月が過ぎ、またも「行く雁」となって長野へと出発する日が近づいてきた。これからまた4ヶ月あまり、池と湖と高原を巡る日々を過ごすのである。その間、当ブログに記すべき何事かを思いつくかどうかまことに心許ないしだいであるが、ひとまず今日までおつきあい頂いた方々にご挨拶かたがた御礼申し上げ、しばしの(あるいは『永の』かもしれないが)お暇を乞い願うしだい。(終)