風薫る季節となり、私の散歩道にアオバズクがやってくる日も近いと思われるのだが、去年に次いで今年もその姿を目にすることはできそうもない。去年はこちらの都合で渡りにはまだ早い4月中に長野に移ってしまったからだった。今年は5月末に旅立つ予定で日程上は問題ないのだが、思わぬ障碍が立ちはだかることになった。去年秋の台風で遊歩道の崖が崩れ、大量の倒木が発生して修復に丸一年を要するというのである。今は大分工事が進み、遊歩道は無理だが川の対岸の険しい山道ならば滝まで行けることにはなっている。私も意を決して何度か山岳登攀に挑み、久々に滝を見て帰っては来たのだが、とても日常の散歩感覚で踏破できる行程ではないと思わざるをえなかった。いつやってくるか分からないアオバズクに会うためにあの山道を行くのは無理だし、強行したところで対岸からでは彼らの姿を見られるかどうか相当疑わしいのである。

 
私は植草甚一の『ぼくは散歩と雑学が好き』の愛読者で、散歩を兼ねた野鳥観察がほとんど唯一のアウトドアの楽しみといっていい男なのだから、この事態はたいへん残念である。だが、それも自然の摂理とあらば仕方がない。諦めてもうひとつの散歩道を当面のメインコースに選ぶことにした。それはマンションの裏口から私鉄の踏み切りを渡って両側に畑の広がる緩やかな坂道を行くコースである。これはこれで、季節ごとに変わる畑の作物、他人の家の庭先や軒先に植えられた草木の花を眺めながら、ぐるっと四角を描いて帰って来るという、それなりに楽しみのある散歩道なのである。
 
我が街には庭木や鉢植えの花を育てる家が多い。私は両側に畑や広い庭のある住宅が軒を連ねる道を行き、隣人たちが丹精込めて育てた花々を、自分では何の手間隙もかけずに、花暦をめくるように眺めながら通りすぎてゆくのである。1月は山茶花、2月はロウバイに梅、そして水仙、3月は沈丁花にマンサク、レンギョウ、サンシュユ、4月は白木蓮、朱木蓮に桜、そしてハナミズキ、5月初めの今ならシャクナゲだろうか。さらにもう少し経つと花菖蒲それから紫陽花へと移ってゆくのだ。
 
花々を眺めながら緩い坂道を上りきると南側に視野が開け、遠く大阪梅田辺りの高層ビル街が薄く霞むように見えてくる。時おり空港を発した旅客機が白い航跡を引いて音もなく上昇する。北側の畑地には細い通路が切ってあり、そこに入ってゆくと雑木の枝にモズが止まっていて、じっと獲物の居場所を探っていたりする。
 
この道は我々が引っ越してきた当時は一面の畑と藪の間に農家がぽつぽつと建っている、という印象だったのだが、およそ一世代が過ぎる間にすっかり面目を一新し、モダンな家が建ち並ぶ住宅街に変わってゆこうとしているようだ。たぶん年老いた両親が亡くなったのを機に、次の世代が住みやすい現代住宅に建て替えるか、あるいは建て売り業者に売り払ってどこかに引っ越していくのだろう。
 
その中に、もはや誰も住まなくなって解体を待つばかりのような古いアパートと、それに通路を挟んで隣接する畑がある。どちらも同じ所有者のものだと思うのだが、時々畑で草を抜いている所有者らしい人はかなりの老人で、もはや畑の手入れもままならないように見えた。畑の道路側には塀が建てられていて、横に通した板の上に黒々と達者な字でこう書いてあった。
 
「生物多様性空しゅうするなかれ。時にはレーチェル・カーソンなきにしもあらず」
 
なるほど。失礼ながらあの老人はそれなりの教養人で、自然保護と生物多様性の維持を願い、人にも訴え、自らも実践しているつもりなのだ。その成果のほどをあの畑に伺うのはちょっと難しそうだけど。レイチェル・カーソンは1960年代初め世界に先駆けて農薬による土壌汚染に警告を発した女性だ。彼女の『沈黙の春』という本は汚染が土壌から川に広がり、水棲昆虫から食物連鎖によって鳥にまで蓄積され、虫も鳥も鳴かない春が来ているとして世界に衝撃を与え、日本の反公害運動の原点ともなった。石牟礼道子の『苦海浄土』によって世に知られた水俣病被害者たちの『怨』旗が国会前に翻ったのは私が学生の頃だった。
 
察するに、老人はレイチェル・カーソンの警告を訴えるに際し、昔学校で暗記させられた「天勾践(こうせん)を空しゅうすること莫れ時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」の故事を引用することに決めたのだ。南北朝時代、隠岐島に流される後醍醐天皇に勤王倒幕の志を伝えるため、児島高徳という武士が桜の幹を削って書き記したと伝わっている。勾践とは呉王夫差と死闘を繰り返し「臥薪嘗胆」の故事の元となった越王のことであり、范蠡はその忠臣である。児島高徳は『史記』を引用することで後醍醐天皇にこう訴えたのだ。
 
「陛下、天はあなたを見捨てはしません。時が来れば必ずあの范蠡のような忠臣が現れ、あなたを救い出すことでしょう」
 
天皇を護送する鎌倉方の武士たちは『天莫空勾践 時非無笵蠡』と墨書した木の幹に気づきはしたのだが、詩句の意味が分からぬまま放置した。だが、それを目にした後醍醐天皇は、ただちにその含意を理解し会心の笑みを浮かべた、と南朝びいきの『太平記』は記している。 
 
畑の老人は、この『太平記』の筆法を借りて、こう言いたかったのであろう。
 
「生物多様性を無にしてはならない。(そんなことをすれば)いつかレイチェル・カーソンのような人が現れて、再び我々に警告を発することだろう」
 
私は老人の言葉をそのように受け止めたが、必ずしも同意はしないままに目指す角を左折し、細い道を辿って府道に出、もう一度左折して坂道を下ってゆく。坂の途中に大阪には希な本格的な手打ち蕎麦屋がある。ここに寄って「ざるそば」を食べて帰るのが朝の散歩の何よりの楽しみなのである。長野に行けば幾らでもうまい蕎麦は食えるのだが、それでもここに寄らねば気がすまないのだ。私はこの店の一杯の蕎麦の味にいたく満足して、また坂道をゆるゆると我が家に向かって下りてゆく。本日の日課はこれにて無事終了となるのである(我ながら何とヒマで平和なことだろう)。