フェルディナント大公夫妻の暗殺にセルビア政府が関わっていたことは明白であり、これを理由としてオーストリアがセルビアとの間に戦端を開くことは当然あるいはやむをえないことと広く認識されていた。オーストリアは同盟国ドイツの「白地小切手」を盾にセルビアを支援するロシアの参戦を防ぎ、2国間の紛争を最終的に解決する「小さな戦争」に止めるつもりであった。だが、この計算は最後通牒を発した直後から狂い始める。

7月25日、ロシア政府はオーストリアの最後通牒の内容を知り、これは事実上の宣戦布告だと受け止め、回答期限の延長を要求すると共に、オーストリアに対する軍の「部分動員」を下令した。ロシア政府は、この局面でセルビアを見捨てればスラブの盟主たる地位を失い、大国としての発言権を弱めることになると恐れたのである。「総動員」を避け、部分動員に止めたのはドイツとの対決を避けるためだったが、すでにオーストリアに白地小切手を渡しているドイツにとって、その区別は無意味であった。

ドイツにはロシアの動員令に戦慄せざるをえない特別の事情があった。実はドイツ軍はロシアとフランス相手の東西「二正面作戦」がいずれ不可避であるとして、その困難な戦争に勝利する極秘の作戦を10年前から綿密に立てていたのである。立案者の名を取って「シュリーフェン・プラン」と呼ばれるその計画は、まずフランスに兵力を集中して短期間に勝利し、兵力を返して対ロシア戦争に打って出るというものである。それは広大な国土を持つロシアが国内に分散する大兵力をドイツ国境に集中させるには最低6週間は必要であるという想定を根拠としていた。東西二正面で同時に開戦したとしてもフランスを6週間以内に降伏させればロシアに全兵力を向け、勝利を得られるというわけである。そのロシアが真っ先に動員を開始したとあっては、シュリーフェン・プランは実施以前に崩壊してしまうのであった。

この時点で、どの国も来るべき戦争が人類史上類を見ない大戦争に発展するとは考えていなかった。19世紀後半のヨーロッパで戦争とは2国間の紛争を解決する最終的手段であり、短ければ数週間、長くても数ヵ月で決着がつき、一方が降伏するか周辺の大国が仲介して停戦に持ち込み、国際会議を開いて敗戦国の領土の割譲、賠償金の支払いを決議して終わるものであった。クリミア戦争も、独墺戦争も、普仏戦争もそのようにして国家存亡の危機に至ることなくして終了したのであった。その「常識」がどの大国にも共有されていたことは疑う余地がない。オーストリアも当然その常識に則って行動したのである。

だが、ナポレオン戦争の終結を受けて戦後の国際秩序を定めた「ウィーン体制」が1948年の「二月革命」から連鎖的に各国で発生した革命によって破綻した後、各国は「同盟」を安全保障の柱とし、互いに「そちらが攻撃を受けた時は共に戦う代わりに、こちらが攻撃された時は共に戦ってもらう」約束を交わし合っていた。皮肉にもその同盟関係が「どこかで紛争が起きて、同盟国が戦争に巻き込まれた時は嫌でも戦わざるをえない」結果を招くのだ。オーストリアがセルビアに戦争をしかけ、ロシアがセルビア支援のためにオーストリアと戦えば、ドイツはロシアと戦い、ロシアはフランスに参戦を促し、フランスが参戦すれば英国も戦わざるを得ないという連鎖反応が不可避になるのである。第一次世界大戦は安全保障のための同盟が逆に各国を本来無関係な戦争に次々と引きずり込む罠となって世界中に拡散していったのである。これは「集団的自衛権」の問題を考える際に示唆に富む事実である。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、フランスとの開戦前にロシアの動員が進み、シュリーフェン・プランが崩壊した状態で東西二正面作戦を戦わねばならない事態に戦慄し、最後の望みを賭けてロシア皇帝ニコライ2世に電報を送る。二人は共に、ヨーロッパ中の王家に娘を嫁がせて「ヨーロッパの祖母」と呼ばれた英国女王ヴィクトリア1世の孫で、若い頃から互いに「ウィリー」、「ニッキー」と呼び合い、長く文通を交わし合ってきた従兄弟どうしだった(英国王ジョージ5世も同様に「ジョージー」と呼ばれる従兄弟だった。このため第一次世界大戦は『従兄弟どうしの戦争』と呼ばれることにもなった)。

7月29日、ウィリーから動員中止の要求を受けたニッキーはすでに「総動員」を命じていたが、「優柔不断で知性に欠ける」という定評そのままに一旦「部分動員」に変更する。だが翌日さらにウィリーから参戦をほのめかす脅しの電報を受けとると再び迷い出し、無防備では危ないと、ついに7月30日に総動員を決定する。そうなればドイツもフランスも英国も、一刻も早く総動員に着手しなければ緒戦の敗北を免れない。こうして世界は後戻りの効かない総動員競争に突入し、8月1日、ついに第一次世界大戦が開始される。

その3日前に始まったオーストリアとセルビアの戦争は、始まった途端にどうでもよくなってしまった。オーストリアの目指した「小さな戦争」は、世界規模の大戦争への興奮と熱狂の渦に飲み込まれ、隅に追いやられてしまったのである。7月29日、オーストリア海軍はドナウ川を下ってベオグラードに砲撃を加え、セルビア領内への侵攻を開始したが、ロシアの素早い対抗動員とガリツィア侵入への応戦に貴重な兵力を割いたため苦戦を免れず、予想外の連戦連敗を喫し、勝利の望みは早々と失われてしまう。頼みのドイツはフランス侵攻に兵力を集中していたため、オーストリア救援どころではなく、オーストリアの開戦前の目算は完全に外れてしまったのである。(続く)