今年9月、私はつつがなく古稀の賀を迎えた。古稀とは「人生七十古来稀」という杜甫の詩の一節に由来する。昭和の毒舌家徳川無声は古稀の感想を聞かれて「古来は稀だが近来はザラだからね」とうそぶいた。東京オリンピックの頃の話である。それから50年余り経った今ではザラもザラ、七十なんておよそ年寄りの内にも入らない...と言いたいところだが、そう思うのは本人だけで、妻に言わせると私など「誰がどこから見ても立派な老人」なのだそうである。

そう言われても私には未だに老人の自覚がないのだが、体の方は着実に来るべき死に向かう歩みを進めているのである。先日そのことを改めて思い知らされる出来事があった。年に一回の健康診断の結果が出たのである。それによると、私の心臓に「心房細動」という現象が発生しているというのだ。その一週間ほど前にかかりつけの医師に診てもらった時にはそんな兆候はまるでなかったのにどうしたことかと訝る私に診断を担当した医師は丁寧に説明してくれた。

それによると、心臓は上部の心房と下部の心室に分かれ、それぞれがまた左右に分かれる構造になっていて、右心房にある洞結節という器官が脳からの電気信号を受けて1分間に60~100回程度規則正しく収縮と弛緩を繰り返すことで全身に血液を送っている。ところが私の場合、本来ひとつしかない筈の洞結節が3ヶ所にできていて、それぞれが不規則に活動する結果、拍動が毎分150回以上になって心房全体が細かく震えるような活動を呈し、間隔も不規則になっている。前者を心房細動、後者を不整脈という。

医師は慣れた口調で淡々と説明してくれるのだが、私の方はそうはいかない。異常なのは他人のではなく他ならぬ私の心臓なのだから。

なぜ洞結節が複数できるのか。「原因は分かっていません」と医師は無情に言った。また原因不明か、と私は胸のうちで舌打ちした。過去にかかった胆石も膀胱癌も突発性難聴もすべて原因不明ではないか。医学は何をしているのだ。だが医師は私の心中など意にも介さず淡々と説明を続けた。

若い人なら心臓にカテーテルを挿入して熱で結節を焼き切る外科手術が有効だが、高齢者(と言って医師は私の顔を見た)には勧められないので、対症療法を選ぶことになる。心房細動のリスクとは、血流が阻害され、凝固しやすくなって血栓を発生させることにある。血栓が冠動脈を塞げば心筋梗塞に、脳に運ばれて毛細血管に詰まれば脳梗塞の原因となる。これを防ぐには血液凝固を防止する薬剤を服用すればいい。具体的にはかかりつけの医師に相談してください、と医師は言った。

では年明けに近くの医院に行く予定があるのでその時に...と言いかけると医師は即座に「そんな悠長なことを言っている場合ではありません。今日にでも診断データを持って診てもらって下さい」と語気を強め、さらに決定的な警告を言い渡した。「放置するとジャイアンツの長島元監督みたいになりかねませんよ」

ああ長島!私の脳裏に右手をズボンのポケットに入れ、覚束ない足取りでバッターボックスに向かう長島の変わり果てた姿が浮かんだ。彼は左手にバットを握り、ピッチャーがそうっと投げてくるボールに何とか当てようと懸命に振るのだが、ボールは空しくバットの下を潜り、力なくワンバウンドしてキャッチャーミットに収まるのだ。現役時代の長島の溌剌たるプレーを記憶に刻む者には見るに忍びない姿である。彼の幻影を振り払い、すぐにも医師の下に駆けつけようと私は決心した。

検診を終えて家に帰る道すがら、私はこう考えた。「人生七十古来稀」とは、死期を悟り、人間の宿命を見通した詩人の感慨であったのだ。徳川無声が言うように七十歳はもはや長寿とはいえないが、この歳になると死に至る病変は当人の知らない間に体のどこかで確実に準備されているものなのである。昔はその歩みを知る術がなく、ある日突然病倒れてこの世とおさらばするか、寝たきりになる運命だったものが、今は当人に何の異常も自覚もないうちに見つかってしまうのである。ついでにその原因まですっぱり取り去ってくれればいいのだが、そううまくはいかないのだ。私も今日からは、今も胸の奥で細かく震え続けているであろう心臓をなだめつつ、薄氷を踏む思いで晩年の日々を生きる他ないのだろうか?(続く)