明治6年(1873年)6月、釜山の日本公館からの急報を受けて招集された閣議において板垣の即時出兵論と西郷の使節派遣論が対立したことから始まった、いわゆる「征韓論争」は、出兵論が閣議の大勢を決する勢いであることを悟った西郷が、これを宿願の殉死願望を遂げる絶好の機会と捉え、「使節暴殺論」をもって板垣を説得して味方につけ、朝鮮派遣使節への就任を願い出る政治工作を展開したことから様相を一変し、西郷・板垣をはじめとする征韓派と大久保・岩倉が結束した内治優先派との激烈な権力闘争の様相を呈するに至る。この複雑な政治過程を理解するために、主要登場人物たちの主張と行動を時系列に沿って以下に捉え直してみたいと思う。
7月29日、副島の帰国を受けて招集された閣議に西郷は病気のため欠席。板垣に結果を問い合わせる書簡を発し、初めて使節暴殺論を告げて支持を要請。さらに三条太政大臣に使節派遣を願い出る書簡を発し、「明治六年政変」の幕を明ける。
8月3日、三条は7月末に帰国していた木戸を呼び、「台湾朝鮮」の件について「下問」。木戸は日本の現状を考えればとんでもないことだと驚き、決して西郷の申し出を受け入れないよう勧告した。
13日に開かれた閣議で西郷は初めて使節派遣を主張したが大方の賛同を得られず、14日付の板垣宛書簡に「自分を死なせては可哀想などと姑息の念を起こされては何事も叶わず、これまで通りの御尽力を賜れば死後までも感謝する」とすでに死を決したかのような言葉を記して変わらぬ協力を要請した。
16日、文面にただならぬ気配を感じた板垣が西郷を訪問。その夕刻、西郷が三条邸を訪問し、すぐに戦端を開くわけではなく、まず礼を尽くして交渉し、拒否されれば開戦も辞さぬ「二段階構想」を説明。再度の閣議招集を強く要請した。
17日、西郷は、彼の人事を議題とするこの日の閣議に当事者の自分が出席すれば彼の存在自体が反対論者への圧力となることに配慮し、欠席して結果を待つことにした。こうして始まった閣議では、板垣、後藤、江藤の征韓派が西郷の使節派遣を支持し、全員一致の賛成をもってこれを議決。翌18日、三条邸で知らせを受けた西郷は斉彬への殉死願望を叶える機会をほぼ確実に手にしたことに狂喜した。西郷にとって使節派遣の議決とは、彼の殉死願望を国家の名誉と尊厳を賭けた外交交渉の達成目標にまで高める光栄ある決定に外ならなかった。これによって西郷は胸の奥深く秘めた願望を誰にも悟られることなく、一点の曇りもない晴れ晴れとした心境で死出の旅に赴くことができるのであった。
19日、三条は箱根で静養中の天皇に西郷の使節派遣の議決を奏上し、裁可を得たが、それには「岩倉の帰朝の日を待ちて相熟議し、更に奏すべし」との勅命が付されていた。この天皇の一言がいずれ持つことになる重大な意味を理解した者は、この時誰一人としていなかった。
この閣議「内決」によって征韓派は、西郷の「暴殺」を確乎たる名分として朝鮮出兵を断行する機会を得たが、それは裏を返せば、出兵の実行には、岩倉の帰国、使節派遣の正式決定、派遣実行とその結果としての西郷の「暴殺」という諸段階を踏まねばならぬことを意味していた。板垣は、革命の巨頭にして首相格の西郷に文字通り決死の覚悟で使節派遣への支持を懇願されれば断るわけにはいかない立場であったと推察されるが、これによって征韓派は事実上、西郷を新たな指導者とする使節派遣派に転換され、板垣らはその支持者の地位に転落したと見ることができるだろう。彼らは西郷が実は征韓論の急激な高まりを利用し、これを使節派遣論支持に転化して閣議決定と天皇の裁可を得、彼の殉死願望を国家の命運を賭けた外交交渉の場における暗殺の悲劇に描き替えようと画策していることにまったく気づかないままに、最後まで彼について行かざるをえない運命を引き寄せてしまったのである。
大隈、大木(共に佐賀)の両人は朝鮮問題に深入りすることを避け、大勢に逆らわない姿勢を示したようである。前年に新橋横浜間の鉄道建設を巡る西郷との激烈な闘争を経験した大隈には、この問題で再び西郷と対決する考えは毛頭なかったであろう。
政府の最高位である三条太政大臣は朝鮮問題に関する定見を欠き、責任回避に終始した感を免れない。彼は閣議で西郷の使節派遣を全員一致で議決したにも関わらず、数え年22歳の若き天皇を誘導してこれを「内決」に止め、正式決定を岩倉の帰国まで先送りし、木戸や大久保らをも巻き込んでできれば中止に持ち込みたい考えだったのではないかと推察される。そうすれば、西郷の生命と朝鮮との戦争の危機を内包した、この厄介な問題に彼一人が全責任を負わねばならない過酷なリスクを免れることができるのだ。
このような各派各人の思惑が入り乱れて正式決定が岩倉の帰国する9月中旬まで先送りされる間に、西郷の使節派遣は時の試練に晒されてゆく。彼が懸命の説得によって味方につけた征韓派は使節派遣を最も強力に推進する勢力に変貌したが、それは同時に西郷が板垣に代わって最も過激な征韓派の頭目になったかのような印象を与えることとなり、彼の身を案じる弟の従道や陸軍の薩摩系将校の憂慮を深め、朝鮮出兵反対の声を挙げさせることにも繋がってゆく。その一方で、朝鮮国内の緊張はしだいに鎮静化の様相を呈し、朝鮮当局は新たな対日強硬策を控え、中断していた公館経由の貿易も再開の見込みが伝えられる。それらは三条の事なかれ主義を助長し、使節派遣反対論者の木戸や西郷の身を案じる薩摩藩出身の軍人たちの反対論に有力な根拠を提供し、西郷を苛立たせるに充分であった。だが彼には、勅命に従ってひたすら岩倉の帰国を待つ以外に打つ手はもはやなかったのだ。
先に帰国した大久保と木戸を除く岩倉使節団の全員が帰国したのは明治6年(1973年)9月13日のことだった。西郷は彼らが帰ればすぐにも閣議が開かれ、単なる形式にすぎない岩倉の同意を得て遅くとも20日までには出発できるだろう、との超楽観的な見通しを立てていたが、三条は15日に行われた岩倉との会談の席にこの件を持ち出さず、その後西郷が出発予定日とした20日を過ぎても何の音沙汰もなく、ついに我慢の限界を超えた西郷が彼の巨体の内に積もり積もった憤激を三条に対し、一挙に爆発させることとなるのである。
思いもよらなかった西郷の天地を揺るがすような憤怒に驚愕し、震え上がった三条は岩倉に助けを求め、ここで初めて事の重大さを知った彼はすぐに西郷を訪問したが、同様の罵声を浴びて引き下がらざるをえなかった。
三条が自ら蒔いた種を刈り取るには、西郷の要求通り閣議を招集して岩倉の同意を確認した上で先の「内決」を正式決定に移行する議決を行い、その結果を天皇に奏上して裁可を得る、太政大臣として当然の職務を遂行すべきであっただろう。だが、この期に及んでも彼にその気は毛頭なく、ただ彼に代わって西郷に使節派遣を断念するよう説得してくれる有力な人物を見つけ出すことしか頭に思い浮かばなかったようである。それは誰が考えても、西郷の竹馬の友であり、かつ生涯の盟友とする大久保以外にありえないのであった。