明治6年(1873年)10月17日早朝、大久保は三条邸を訪れて辞表を提出、位階返上の意思を告げた。それは三条と岩倉の裏切りに報いる当然の行動だったが、不意を突かれた三条は狼狽し、さらに岩倉の辞意が告げられるに及んで茫然自失、為す術を知らぬ窮地に陥ってしまう。そして彼の下に西郷を初めとする「征韓派」の参議一同が押しかけて閣議決定をただちに天皇に奏上し、裁可を仰ぐよう詰め寄ると、彼は一日だけの猶予を得てその夜岩倉邸を訪れ、これまで通りの協力を哀願したがすげなく断られ空しく帰宅した後、高熱を発して卒倒する。
この三条実美という小心凡庸の人物に使節派遣の成否を決定する鍵を握られていたことが西郷の不運であった。8月17日、西郷が彼の使節派遣を議題とする閣議の招集を求めた時、三条は表面上これに賛意を表して閣議を招集し、全員一致の議決をもって天皇の裁可を得た。だが、それには「岩倉の帰国を待って再評議すべし」との勅命が付されていた。それが三条の助言によるものか、慎重を期した天皇の意思の現れであったかは今なお不明だが、使節派遣の実行を最短でも1か月ほど遅らせる効果を挙げたことは間違いない。西郷はあえてそれに異議を唱えず、使節派遣が政府と天皇によって「内決」されたことに満足した。
岩倉他使節団全員の帰国は9月13日だった。西郷はすぐにも閣議が開かれる筈と決め込み、岩倉の形式的同意を得るには1週間もあれば充分で、21日頃には出発できるだろう、と楽観していた。だが三条はその気配を微塵も見せず、岩倉はしびれを切らした西郷が大爆発を起こすまで、その経緯を知らなかった。三条がこの件を放置した理由も今は不明だが、もしかすると、時の経過と共に現地情勢が落ち着き、西郷もこれなら何も死ぬことはない、と思い直してくれるのではないか、と甘い期待を抱き、しばらくそっとしておこうと考えのかもしれない。だが、もちろん西郷にその気はなく、9月末、彼は三条に怒りを爆発させ、仰天した三条はここから恐怖に駆られて迷走を初め、大久保と岩倉に見放されて行き詰まり、ついに卒倒したことによって、ようやくこの恐怖の役回りから解放された。
三条卒倒のニュースは、巻き返しを狙う木戸や伊藤らの長州派に復権のチャンスを与えることになった。伊藤は木戸と大久保を和解させ、大久保の協力を得て岩倉を太政大臣代理に就け、天皇に閣議決定を奏上する際に使節派遣を延期すべきだとの助言を行う工作を構想し、次いで西郷を説得して使節派遣の断念と土佐・佐賀派からの離脱を促す役割を期待していた。これによって西郷を土佐・佐賀派から切り離して味方に就け、彼らの分断と弱体化を図り政権復帰の機を窺おうとしたのである。
帰国してまもない伊藤は使節派遣に懸ける西郷の不退転の決意を知らず、大久保なら彼の説得は可能と考えていた。しかし、伊藤から作戦の概略を聞いた大久保はこれに明確な賛意を示さず、曖昧な姿勢を保って伊藤を帰した。その後、大久保はこれを彼自身の考案した「一の秘策」と称して配下の薩摩人たちに実行を命じ、岩倉には今度こそ何があろうと絶対に怯まず貫徹せよ、と厳命した。彼は伊藤の甘い情勢判断を排して西郷の説得を断念し、彼もろとも板垣、江藤、後藤、副島の五参議を一挙に政府から追放する大逆転劇に打って出たのである。
大久保の策は秘密裏に実行され、10月20日、岩倉に太政大臣代理に就任するよう勅命が下された。そして22日、西郷以下5名の参議が岩倉邸を訪れて15日の閣議決定を天皇に奏上するよう要求、岩倉がこれを拒否して彼独自の意見を奏上すると言明し、これを聞いた西郷が、岩公は閣議決定を斥け、延期を妥当とする意見を奏上する御所存かと迫ると岩倉は、いかにもその通り、と応え、西郷がそれでは私は退き申すと応じて事は決した。
西郷は、岩倉のあからさまな閣議決定無視、職務規定違反に対抗して奏上を阻止し、あくまでも使節派遣を強行しようとはせず、一切の公職を辞して鹿児島に帰郷する道を選択した。それはなぜか。命を捨てる覚悟で朝鮮に渡り、出兵の名分を立てる西郷の決意とは、岩倉の傲然たる一言であっさりと断念するほど軽いものだったのか、という疑問が生じるのは当然である。一介の門外漢にすぎない私もそう思った。
おそらく西郷は、大久保と岩倉が結託して断行した「一の秘策」を阻止するには警察力をもって彼らを拘束するか、彼自身が権限を踏み越えて天皇に緊急上奏を決行するかのいずれかしかない、と考えたと私は思う。だが、そのどちらも彼の望む処ではなかったのだ。西郷が朝鮮問題を積年の殉死願望を叶える千載一遇の好機と考えた理由は、日本と朝鮮の間には互いに相容れない国家原理の衝突という根本的な問題が存在し、それが両国間の国交再開を不可能としている、という現状認識にあった。中国皇帝の忠実な臣下である朝鮮は、東夷にすぎない日本国王が「天皇」を名乗って「勅命」を下すという無礼を許すことができず、日本政府は主権者である天皇への侮辱に耐えられないのである。
両国は共に、問題の根源は相手国の無礼にあると考え、朝鮮は日本との外交途絶を望み、日本はかつて近代国家として当然の外交関係樹立を朝鮮に呼び掛けて拒絶されたことを遺恨とし、明治6年(1873年)5月に突発した朝鮮側の日本侮辱の掲示事件を機に「征韓論」を燃え上がらせたのである。西郷がこれをまたとない死に時、死に場所と考えたのも無理はないであろう。日朝間の根本的対立は通常の外交交渉による解決を望むべくもなく、政府の総意は挙げて「朝鮮討つべし」に向かっているのである。それならば自分が使節に立って朝鮮に渡り、日本への敵意に燃え上がる朝鮮官憲の手に掛かることによって開戦の名分を立て、国論を朝鮮征討に統一する意義は充分というべきであろう。西郷はそう考えたのだ、と私は推測するのである。
だが、西郷の計画は、三条の内心の反対あるいは天皇の懸念といった予測不能の要因によって延期され、さらに三条の理由不明の放置に晒される。これに激した西郷が三条に怒りを爆発させると怯えた彼は大久保に助けを求め、米欧回覧の旅で近代化こそが日本の生き残る唯一の道と確信した大久保と朝鮮で死ぬ覚悟の西郷との対決を不可避とする。日本の置かれた現実を直視する大久保にとって朝鮮との戦争は、彼が最適解と信じる近代化を阻害する無用の出師であり、これを阻止して西郷もろとも征韓派を一掃し、彼自身が国家権力を掌握して近代化を強力に進める覚悟を決めたのである。
大久保と岩倉が結託して西郷の使節派遣を阻止する策謀を仕掛けたことは、西郷のどこまでも合法的手続きに従った全員一致の議決によって政府全体の総意を形成する作戦を根本から否定した。これに対抗するには、こちらも合法性の仮面を剥ぎ取り、実力をもって粉砕するしかない、と西郷は考えたであろう。だがそれは政府の分裂と権力を巡る内部抗争の実体を世に明らかにするもので、自分の本意とする、身を捨てて国家の尊厳を守る自己犠牲の極致とは到底いえるものではない、と西郷は思い直し、その機会が完全に失われたことを悟って身を引く決意を固めたのだと私は思うのである。