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陸前高田出身の同僚のご家族、家の情報収集、どれくらいしたのかも思い出せないくらい長い時間でした。なかなか欲しい情報にだどりつけずもどかしい時間を過ごしていたそんな中、同僚本人が
「家がある、家が残ってる!」
と号泣し始めました。今これを書いていても涙が出てきます。
ニュースに使われていた写真にご実家が写っていたのです。
ご実家のすぐ手前までは津波が襲ったあとがあり、破壊しつくされていました。
しかしまだご家族とは連絡が取れていなかったので、すぐに日本に帰りたい!と。
もちろん誰も反対する人はいませんでしたが、現実問題、原発事故のため日本へのフライトは全部キャンセル。どこかの国を経由するとしても、この状況でどこの航空会社が日本に飛んでいるのか・・
日本ならどの空港でもいいと言っても、その先陸前高田市までの交通手段はあるのかなど何もわからないまま、とりあえず香港経由なら日本に帰れることがわかったのですぐに手配しました。とにかく海外にいるよりは日本国内のほうが正しい情報が手に入るだろうということで翌日には同僚は日本を目指して出発しました。
もうなんだか、涙涙の送り出しでしたね。
この状況でかける言葉がない。受け入れられない現実が待っているかもしれない。
どんなに不安だったんだろう。。
まだ寒いだろうしとにかく体に気をつけて、自分の身の安全を確保して元気で戻ってきてね、としか言えませんでした。
送り出してだいぶたってから、無事に陸前高田にたどり着いたと連絡がありました。
現地を出て香港から日本までは順調でしたが、その後やはり交通機関がつながらず
40時間の長旅だったそうです。
残念ながらお兄様を亡くされましたが、避難所にいたご家族には再会できたと聞いて
また涙涙でした。
実家の周りはなにもなくなっていて、迷い子になったよ、なんて同僚は笑っていましたが、もうほんとうに彼女にどう寄り添うのが適切なのかもわからなかったし、
きっと泣き叫びたいのを我慢して笑ってくれているんだろうこともわかったけど
なにもできない私ってだめだ・・と落ち込みました。
あのときは現地にいた日本人はかなり落ち込んでいましたね。
日本の国難の時に海外にいる後ろめたさとか、駆けつけてなにかしたいけど今の生活は現地にあるわけですぐには動けない、でも駆けつけたからと言って何ができるのかわからない、結局無力だな、と。。
そんな時に支えられたのは現地の人からの励ましでした。
日本だとちょっと考えられないかもしれませんが、あちらの人ってほんとうに自然に知らない人にも声をかけてきます。
「日本人だよね?家族は、友人はみんな大丈夫か?」と
バスの中で、スーパーで、ご近所で、ほんとうにたくさんの方から声をかけていただきました。
会社は日本企業ではなかったものの、社内で募金活動をして日本に送ってくれました。私は直接の被災者ではありませんでしたが、たくさんの方に支えられたな、
と今も感謝しています。
だからと言って震災は終わったわけではなく、まだ行方がわからない方、
今も避難されている方、もとの生活に戻れない方がたくさんいらっしゃいます。
そんな方たちに思いを寄せながら
3月11日 14時46分、黙祷・・